東輪寺を訪ねる

           安藤 邦男

 

ジャカルタに単身赴任中の次男が早々と正月休暇で帰郷していたが、二十五日、嫁と孫娘とを東京に残したまま、車でやってきた。北陸に会いたい人がいるし、高一の孫娘はまだ学校があるかららしい。学校が終われば、遅れてやって来るという。

次男は、久しぶりに日本のうまい料理を食べたいといい、なにやらネットで検索していたが、上前津近くに口コミで人気抜群というステーキハウス「柏葉亭」を見つけ、予約した。

タンパク質を制限されているわが身も、久しぶりのステーキと聞いて何となく浮き足立ち、妻と一緒に次男の車に乗り込む。

 店はビルの地下に隠れ家風のたたずまいを備え、正午前というのに満席であった。焼いた殻つき牡蠣とサーロインステーキに、一同ご満悦の態で店を出る。

せっかく上前津まで来たからには、やがてわが家の菩提寺になる予定の東輪寺を次男に見てもらってはどうかと妻が提案、それにしたがった。

東別院の前を西に進むと、小さな公園がある。道を挟んでその向かいに、暫くぶりに眺める東輪寺があった。

寺の前に車を停め、中に入ったが、境内には誰もいない。本堂の横から裏手の方にまわると、いくつかの句碑が建っている。刻まれた草書文字は読みづらかったが、何とか判読できた。

(あわ)(ひえ)に貧しくもあらず草の(いお)  芭蕉

紫陽花やけふ(今日)きのふ(昨日)の我ならず  秋麿

境内には、そのほか多くの句碑があった。帰宅後、芭蕉の句をネットで調べてみると、名古屋市教育委員会が芭蕉歌仙興行の地と認める解脱寺にも、同じ句碑があることが判った。こちらの方は

(あわ)(ひえ)にとぼしくもあらず草の(いお)  芭蕉

とある。芭蕉は後にこの「とぼしく」を「貧しく」と改めたという説もあり、どうやら「とぼしく」の方がオリジナルのようである。

それはさておき、境内を散策している間に、妻が庫裏の方へ回って、若い女性を連れてきた。おくりさんだろうか、挨拶をすると、本堂の扉を開けてくれた。

中に入って参拝を済ませ、外へ出たとき、たまたま外出中であったという住職が帰ってきた。「どうぞこちらへ」といって、大きな祭儀場ホールへ案内してくれた。

身近に見る住職は若い青年であった。今年、年老いた御祖父の跡を継いだばかりで、先代住職の尊父はもう十年も前に他界していると語る。

思い出したが、この寺を初めて訪問したとき、門前に「山門不幸」という立て札があり、偶然にも尊父の葬儀が終わったばかりだったー。

住職の語る由来によれば、東輪寺は禅宗三派のうち黄檗宗(おうばくしゅう)に属し、本山は京都にある(まん)福寺(ぷくじ)である。尾張藩二代藩主の徳川光友によって延宝二年(一六七四年)に創建された由緒ある寺院である。その時代、東輪寺は文人墨客の集う寺院として知られ、その名残が多くの句碑となって今なお境内を飾っている。

地理に詳しい知人によれば、昔はこのあたり一帯が東輪寺の地所であったという。だが名古屋空襲で被害を受け、焼けた本堂は二十年ほど前に再建されたものの、境内は現在のように小さくなったとか。

そういえば、先ほど通された本堂の祭壇も、実家の曹洞宗の岳桂院と違ってまことに簡素、釈迦如来の立像一体が安置されているのみで、装飾や寄付金の掲示など一切ない。それがかえって信仰の真実を伝えているようで、教義の奥ゆかしさを感じさせた。

気さくな住職相手に、わたしたちはこのお寺に縁のできた経緯を話しはじめた。

十数年前になるが、わたしは前立腺がんの宣告を受け、死を強く意識していた。そのころ、葬儀場を経営する平安会館が平和公園の墓地を売り出していた。父母の眠る場所からは離れるが、分家の身であるからにはやむを得ない。近くに安住の地を求めるしかあるまいと、たまたま紹介された東輪寺墓地の一角を購入したのであった。その後、わたしは延命し、墓地は墓開きもせず、そのままにしている。

それに、わたしたちにはもう一つの迷いがあった。万一のとき、僧侶の依頼先は先祖代々の曹洞宗の寺院にするか、それとも新しい墓地の黄檗宗の寺院にするかという問題である。

そんな気持ちを正直に打ち明けると、住職はいう。

「亡くなった方の霊を慰めることに変わりはありませんから、どちらでもお好きなようにしてください」

考えてみれば、曹洞宗も黄檗宗も同じ禅宗、いわば兄弟宗教なのだ。わが墓地はすでに黄檗宗に属しているし、だからというわけではないが、同じ宗派に葬儀を営んでもらっても、先祖に背を向けることにはならないであろう。思わず、わたしも応じた。

「いずれここでお世話になるかも知れませんが、その節は宜しくお願いします」

 「いやいや、お元気そうですから、まだまだ先のことでしょう。でも、折角お出でになったのだから、よろしかったら安藤家のご安泰を祈って、お経を読んで差しあげます」

 わたしたちは住職の心遣いに甘えることにして、祭壇の前に座った。

 若いせいなのか、般若心経を唱える住職の声は今まで耳にしたどの住職のものよりも力強かった。その朗々たる響きはわたしの肺腑を貫き、俗塵を離れて涅槃の境地に登る思いがした。

聞きながら、あの世への先達はやはりこの住職にしようと、ようやくわたしは決意を固めていた。

                         (平成二十八年一月)