《わが人生の歩み》(32)
最後の公立高校
昭和六十二年、わたしはA高校に転勤した。公立高校として最後の勤務であった。
四月の始業式、生徒たちの登校する姿を見て仰天した。これまでも長期休暇などに予備校へ出かけたことがあるが、そのときの光景と同じである。男子には背広姿もいればジーパンにTシャツもいたし、女子の服装は色とりどり、なかには茶髪に化粧を施した姿も見うけられるのだ。
A校の私服登校は県下唯一で、それには歴史があったと聞いていた。かつて生徒たちは服装の自由化を学校側に要求し、それを認めようとする校長に教育委員会が待ったをかけ、それでひと揉めしたという。だが、制服の規定を残したまま、私服登校を黙認という形で妥協、それが受け継がれてきたというのが実情のようであった。
この高校は、明治十年に尾張藩の藩校を引き継いで創立された名門中学校を前身に持ち、戦後は学制改革により近隣の女学校と統合され、新制高校として発足している。愛知県でもっとも難関な高校の一つとされていた。
「正義を重んぜよ」、「運動を愛せよ」、「徹底を期せよ」という校訓通り、生徒たちはみな自由闊達、勉強よりも運動やクラブ活動に力を入れていた。何事も自分たちで決めようとする気概に満ちており、生徒会活動も活発、学園祭などはすべて彼らの運営に任され、教師はそれを見守り、ときどき助言する程度であった。
赴任した当時、学校と対立する生徒たちの運動は影を潜めていたが、それでもこんな事件があった。その年の八月に、岸元首相が亡くなったときのことである。教育委員会の通達により校門に弔旗を掲げた。すると、生徒会関係の生徒が二人、教頭に話があると言ってきた。聞いてみると、弔旗を降ろせという。理由は、戦犯で国賊である男になぜ弔旗か、というのだ。もっとも、それは生徒会全体の意思ではなく、たまたまその二人の単独行動だったようで、説得するとおとなしく帰って行った。彼らにしてみれば、ただ抗議を申し出たという実績を作りたかっただけかもしれなかった。
一方、学習のほうはどうかといえば、ここにも問題があった。そのころ、愛知県の高校入試は学校群による複合選抜制度を採っていた。この制度は、有名校を目指しての受験競争の過熱を緩和する目的でつくられたもので、東京都を皮切りに全国に波及し、愛知では昭和四十八年から行われていた。
たしかに学校差の平均化を招き、一部エリート校をなくしたという意味では、成功したかもしれなかったが、現場には大きな難題をもたらしていた。生徒間に生じた大きな学力格差とそれへの対策をどうするかであった。学校によっては能力別学級をつくったり、補習授業などを行ったりしたところもあったが、A校ではそのような措置は一切講じなかったし、授業も受験対策的なものはまったくなかった。
生徒たちはおおむね気位が高く、運動に熱中し、ガリ勉を軽蔑する傾向が強かった。そんな雰囲気に流されて落ちこぼれていった者もあれば、学校の授業に見切りをつけたのか、ひそかに塾通いをする者もいた。いずれにしても、浪人生を多く出しているのがこの学校の特色であった。
校内運営については、S校長も新任であったし、管理職はなすこともなく、従来のしきたりを見守るしか方法がなかったのである。
「あの学校は伝統があるだけに、保守的で、何か新しいことをしようと思っても無理ですよ。これまでのやり方に任せればいいですよ」
転勤が決まったとき、ある前任者がそう言ったことをわたしは思い出していた。
(平成二十七年十月)