あじさいと尾崎士郎の里に遊ぶ

               安藤 邦男

 

「リンクスという会員制のホテルから、案内が来ているわ。行かない?」

 妻から渡されたチラシを眺めると、ホテルの場所は吉良吉田、近くであじさい祭りをやっているという記事が目に入る。 

「あじさいといえば、梅雨だろうー。花は大丈夫かな?」

 花の心配をしたのには、訳があった。アジサイは六月に最盛期を迎えるが、それは梅雨が必要な水分を多量に与えてくれるからである。

だがこの時期、梅雨どころか快晴つづきで、しかも六月には珍しい30度を超す猛暑が続いている。花は水分不足で、栄養不良に陥っているのではないか。

 「アジサイといえば、英語ではハイドレンジアというでしょう。何でも水に関係があると、聞いたことがあるわ」

 妻の知恵は、通っている英会話教室から仕込んだものであろう。

「そう、ハイドレンジアHydrangeaの語源は、水を意味するHydorと、容器を意味するangeaからできているという。なぜかというと、栽培には大きな器一杯の水を必要とするからだとも、また花弁がコップの器に似ていることからだとも言われているんだ」

 「でも、雨が降らなくっても、アジサイは咲くと思うわ。とにかく行ってみましょう」

「うん、そうだな。それに吉良といえば、尾崎士郎の故郷だ。その記念館も見れるしね」

というわけで、久しぶりの一泊旅行に出かけることにした。

名鉄西尾線で名古屋駅から吉良吉田まで約一時間、送迎バスに揺られること十分ほどでリンクスに着く。

ホテルは、三河湾に面した丘の中腹にあって、十階建の威容を誇っていた。

案内された部屋は最上階。眺望は絶佳、遥かかなたには渥美半島が浮かぶ。陽はすでに西に傾き、風は凪いでいた。鏡のような海面には、幾筋かの航跡が絵に描いたように伸びている。船舶の姿はもう見当たらない。目を下に転ずれば、浜に沿って蛇行する道路や点在する家屋が、まるで精巧なジオラマのように見える。

ウイークデイのため、プールや遊技場などの娯楽施設が使えないというので、大浴場と露天風呂で時間をつぶした。晩餐は海の幸を連ねたバイキング、客は五十人前後で、ここにも中国語を話す団体が目立った。

翌日、朝食後早ばやと、ホテルの送迎バスに乗り込み、「あじさいの里」へ出発。同行の客は十数人、バスは湾岸沿いに山道を走り、やがて形原温泉街に入る。山道に、列をなして歩く小学生の一行に出会う。おそらくあじさい見学の遠足であろう。

池のほとりでバスを降り、目を丘の方に向けると、思わず息をのんだ。天に向かって伸びる丘陵は、あたかも不規則な雛壇のように、見事なあじさいの花で埋め尽くされている。主調色は紫だが、青、赤、黄、橙、白と、綾なす色彩は万華鏡の世界を創り出す。

麓には、小学校の校庭ぐらいの池があり、その周りにもあじさいが咲き誇り、鮮やかな彩りが水に映えていた。

二時間ほど過ごして、ホテルに帰る。日本料理の昼食を済ませると、ふたたび送迎バスの人となる。来るときと同じで、帰るときも二人だけ、ここを訪れる客のほとんどは、自家用車族とみえる。見送るホテルマンに、手を振って別れる。

吉良吉田駅で、人待ち顔のタクシーに乗りかえ、「尾崎士郎記念館」を目指した。吉良図書館前の車寄せで下車する。おそらく図書館の駐車場であろう、車が二、三台、停まっているだけで、ほかに人影は見当たらない。

駐車場横の細い通路を通り抜けると、破風を正面にした小さな平屋造りの建物の前に出た。それが「尾崎士郎記念館」であった。同じ郷土の作家、新美南吉の豪壮な記念館とは比ぶべくもない。

三〇歳代ぐらいの男性がひとり、まるで宝くじ売り場のような窓から顔をだし、入場券を渡してくれた。

館内では、「尾崎士郎と早稲田大学」という特別展をやっていたが、客は誰もいない。小学校の教室くらいの部屋には、士郎の遺品の数々が並べられ、壁には年譜や説明書きのほか、映画化された『人生劇場』のポスターの類いなどがぎっしり張られている。

しばらくすると、二人連れの女性が入ってきた。売り場の男性はどうやら学芸員らしく、四人になった入館者を案内しながら、展示品の解説を始めた。

聞き入るうちに、記憶の海馬が頭をもたげ、わたしはその背に乗って青春時代にタイムスリップしたー。

中学を出て経済専門学校に入ったころ、わたしはその校風になじめず学業を放棄し、小説などを読みふけっていた。終戦直後のこと、世の中には殺伐な空気が横溢し、それが嫌でわたしは自我の殻に閉じこもった。そこで心の癒しとなったのは、戦前の中学時代に熱中した純文学の格調高い味わいではなく、血沸き肉躍る大衆小説の人懐っこい親しみ易さであった。

吉川英治の『宮本武蔵』、石坂洋二郎の『若い人』、江戸川乱歩の探偵小説、中里介山の『大菩薩峠』等々、それらの中に尾崎士郎の『人生劇場』があった。そのころ、わたしは主人公青成瓢吉に自分の人生を重ねたものであったー。

「なにをボンヤリしているの。これから行く所がたくさんあるでしょ。急がなくっちゃ」

たぶん、夢から覚めたときの気分だった。妻の言葉に促されたわけではないが、時間がない。次の予定は、てきぱきとこなさなければならないのだ。

隣接する足利時代以来の豪商、糟谷縫右衛門(かすやぬいえもん)の広大な旧邸を早々に見学し、その足でタクシーに飛び乗り、鎌倉時代中期の建立とされる三河地方唯一の国宝、金蓮寺(こんれんじ)の阿弥陀堂を外から眺め、ふたたび吉良吉田に戻り、当駅始発の名古屋行きに飛び乗った。

「リンクスには、もう一度泊まってもいいですね」

「そう、そのときは吉良上野介と吉良仁吉の墓や記念館にも、行きたいな」

妻と語りながら、車窓に目をやると、西の空はもう茜色に染まっていた。

慌ただしかったが充実していた一泊二日の旅は、こうして終わった。    

(平成二十七年七月)