《わが人生の歩み》(33)
昭和の終わりとともに定年退職する 安藤 邦男
このシリーズの前号で書いたように、A校はわたしの公立高校最後の勤務校であった。ここでの三年間と非常勤講師時代の二年間を加えると、教師生活は三十九年に及んでいる。
ところで最後の勤務校というと、教師というものは何となく特別の感情を抱くものである。これまで、わたしは退職を控えた何人かの先輩教師たちに接してきたが、できることなら有終の美を飾りたい、想い出として残るようなことをしたいというのが、その人たちの偽らざる気持ちのようであった。わたし自身、そんな境遇に身を置いたとき、やはり先輩教師と同じ事を考えていた。
だが、何十年もの歴史を背負う伝統校の重みは、わずか三年を過ごすに過ぎない教頭の気持ちなど顧みるはずはないのである。わたしの毎日は、ひたすら従来の轍を踏襲するだけに費やされていた。しかし、それはそれで大切なことだったし、それでよかったと今では思っている。
三年間の想い出としては、さまざまな出来事が脳裏に去来するが、末節は省略し、主なものだけを振り返ることにする。
着任した昭和六十二年、A校は前身の旧制中学校が創立されてから百十周年に当たり、秋に行われる記念式典の準備のために、わたしの毎日は忙殺されていた。同窓会の会合が毎週のように行われ、記念誌の発行やら、記念賞基金の設立など、さまざまな議題が話し合われた。会には、三つの同窓会―旧制中学、旧制女学校、それに新制高校―から、それぞれの代表が参加し、女子校からの代表女性を含めていずれも百戦錬磨の強者揃い、侃々諤々の議論がときには深夜まで続くことがあった。
学校側代表のわたしはなす術もなく、その議論を静聴するしかなかったことを憶えている。その年の十一月、市内のNホテルで百十周年記念式典が盛大に行われたのはいうまでもない。
二年目に当たる翌年の四月、回り番で名古屋北地区の教頭会長の席につき、その地区全体の雑務を引き受けることになった。教頭会としての記念行事や県外施設の見学など、それはそれで結構忙しかったとはいえ、新しい職場にも慣れたせいもあって気分的にはやや余裕ができていた。久しぶりに、わたしは校内発行の「研究集録」に「エドガー・アラン・ポオ、時代と人と文学について」を発表している。
その頃の忘れられない出来事としては、その年の十月、二年生のN・Y子が自宅近くのビルから飛び降り自殺をしたことだった。
学校を訪れた父親によれば、早朝、アルバイトの新聞配達の途中、ある建物のビルから飛び降りたという。屋上には靴がきれいに揃えてあり、覚悟の自殺であったらしい。遺書も残されていず、家庭では思い当たる節はないという。だから友人関係の悩みか、さもなければ授業かクラブ活動にその原因があるのではないかと思ったようである。クラス関係のことは担任が対応し、学校の授業体制などについてはわたしが説明した。
親にしてみれば、当時マスコミで問題にされていた管理教育の犠牲者ではないかと思ったらしい。だが、A校は自由な校風で、受験教育は一切なく、すべては生徒の自主性に任せていることなどを話すと、納得したようである。
ただ、ほかの教師の中には、当時の複合選抜という入試制度のもたらした悪影響のせいではないかとする意見もあった。むろん、そのようなことは親には伏せたが、学校間格差是正のための複合選抜が、逆に校内における学力格差を増大させ、その悩みが彼女の死を招かなかったと言い切れる確信はわたしにはなかった。
三年目は、国の内外にも、またわたし自身の身の上にも、大きな出来事が目白押しに続いている。昭和六十四年のことである。
年明けの、未だ松の内の七日、予期していた昭和天皇の崩御があった。テレビでは、当時の小渕官房長官(故人)の示す「平成」の文字が放映された。歌舞音曲の類いは一切自粛、追悼番組だけの流れる画面を見ながら、わたしは過ぎし昭和に思いを寄せていた。
― わたしの半生は昭和と共にあった。世界大恐慌の年に生を受け、五・一五事件や二・二六事件を経て、日中戦争と太平洋戦争を経験、そして敗戦。つづく戦後の民主化運動、六十年安保と七十年安保の闘争、思えば激動の時代だった。そのなかで、わたしの思想や信条も右から左へ、左から右へと、大きく揺れ動いていた。―
天皇崩御の後、わたしは朝日新聞の購読を中止した。それまで何十年にもわたって、雑誌は「世界」、新聞は「朝日」しか読まなかったわたしが「朝日」を止めたのには訳があった。それは崩御の数ヶ月前、一面に大きく報じられた膵臓ガンの記事である。当時、ガンは不治の病として本人へはもちろん、家族への告知も慎重であった。それが何としたことか、かつて二葉亭四迷や夏目漱石を擁し、文化学芸欄では他紙に抜きんでていた伝統の「朝日」が、皇室の意向を無視し、こともあろうに暴露雑誌よろしく天皇の膵臓ガンを得意げにすっぱ抜くとは―。あのとき受けた衝撃は、今なお忘れられない。「朝日」の見識の高さや政治批判には見るべきものはあるが、人の気持ちへの配慮は微塵もないのではないか。これが当時の思いであった。
国際的にも、世界は大きく動いていた。五月には、中国で民主化を叫ぶ学生たちによる天安門事件が起きているし、十一月には東西を隔てるベルリンの壁が若者たちによって崩壊されている。そして、翌十二月には、ブッシュ米大統領とゴルバチョフソ連最高会議議長が共同で冷戦の終結を宣言している。
戦後長く続いた冷戦体制がこれで終わったのかと、わたしは間近に迫った自分の退職と重ね合わせながら、昭和時代の終焉を噛みしめていた。
そして同じ年度の最終日、平成二年三月三十一日、わたしはA校を去った。
その日は、午後三時ごろだったと思う。春休みだったが、残務整理やクラブ活動の指導などで出校していた十数名の先生方が見送ってくれた。事務長の計らいで贈られた記念の花束を手に、校門を出た。拍手を背に受けたとき、涙がにじんだのを覚えている。
その夜は、妻とささやかながら退職祝いのうたげを催すつもりだった。だが、わたしの足の向かった先は、暖かい自宅でも、華やかなホテルでもなく、冷たい国立病院の病室だった。そこには、前日、網膜剥離の手術を受けたばかりの妻が横たわっていた。
別れの花束は、そのまま見舞いの花束となり、わたしは病床の花瓶に丁寧に生けた。妻の回復を祈るとともに、明日から始まろうとするわが第二の人生への期待を膨らませながらー。
(平成二十八年三月)