しだれ桃の里を訪れる
サクラの時期も終わりを告げた四月の中旬、所属するサークルの仲間たちに誘われ、豊田は上中町のしだれ桃を観に行った。地下鉄御器所駅から乗車、終点豊田駅に着くころには、出かけに降っていた小雨はすでに上がり、どんよりした曇り空になっていた。
駅前の駐車場で「おいでんバス」に乗った。「おいでん」とは「おいで」を意味する三河弁である。乗客はわれわれ一行六人を含めて二十人ほど、矢作川沿いの風景を楽しんでいるうちに、一時間少々で中継点の小渡に到着、ここでシャトルバスに乗り換える。齡い数十年というむかし懐かしいボンネットバスである。行き先は豊田市の北端、岐阜県と境を接する旭地区にある上中町だ。
バスは山あいの長閑な山道をゆったりと走る。近づくにつれ桃の木々が数を増していく。乗ること二十分あまりで、もう目指す現地であった。
下車して、思わず息を呑んだ。見渡すかぎり、小高い山々は満開のしだれ桃で埋めつくされていた。
臨時のバス停は広場の中にあって、そこには屋台が軒をつらね、朴葉寿司、五平餅、鮎の塩焼き、猪肉の串焼きなど、山里ならではの品数を並べていた。取りあえず腹ごしらえをということで、一行は思い思いの品を購入、店の前にしつらえてあるテーブル席についた。まず、わたしは缶ビールで喉を潤し、つまみになる物を口に入れた。そのなかで、初めて食べたものがあった。猪肉の串焼きである。恐る恐る歯を立てると、砂肝のような食感で、臭みもなく、乙な味であった。
食後、一行は曲がりくねったダラダラ道を、山頂に向かって歩きはじめた。空は曇っていたが、ときおり太陽も顔を出し、暑からず、寒からずの行楽日和である。だが、山道は息が切れる。われわれ夫婦は途中で立ち止まったりしているうちに、仲間たちともはぐれてしまった。
一時間あまりを山頂に向かって歩いた。桃林は途切れることなく、まだ先があるようだったが、途中の小高い丘に茶店があったので、そこでコーヒーを取って休んだ。
低地から見上げる風景もいいが、ここからの遠望は圧巻だった。桃の花は、純白から濃赤色までさまざまな色調のグラデーションをなし、全山を彩っている。処々に、レンギョウが鮮やかな黄色を添えている。ときどきウグイスの声も聞こえる。目の前に出現している世界は、まぎれもなく中国の詩人陶淵明が描いた桃源郷であった。
小憩後、もと来た道をゆっくり下っていくと、珍しいことに気づいた。多くの樹は赤、白、ピンクなど、一色の花をつけているが、なかには一本の樹に二色または三色の花をつけているものがある。接ぎ木ように見えるがそうではなく、まことに不思議な姿だった。まさに大自然がもたらした造化の妙といえる。
帰宅してから調べてみると、これらは「源平桃」という品種だと知った。紅白の花が一つの幹に共生することから、白旗と赤旗をそれぞれ掲げて戦った源氏と平家の故事にちなんだ名称だという。
さらに次の知識も得た。しだれ桃はもっぱら観賞用のハナモモで、小粒な実は生るが、なかには有毒のものもあって、そのままでは食べられない。だから、落ちた実は苗木を育てるために使うほかは捨ておくという。
とあるビューポイントで、女性の助手を一人つれたカメラマンがビデオ撮影をしていた。聞くとNHKだという。
ちなみに、翌朝のNHKニュース番組では、このとき収録したと思われるしだれ桃が画面いっぱいに映し出されていた。そればかりではない、その日の中日新聞の朝刊も、上中町の花桃の記事を美しい写真入りで掲載していた。二つのメディアが同時に取りあげたとなると、われわれが訪れた日はまさに観桃の旬だったようである。
それはさておき、散歩道の要所要所には、案内人が立っていた。小山を降りる途中、妻がその一人に声をかけた。
「これらの桃の木は自然のまま生えたのですか」
「いや、そうではないです。四十年ほど前に、地元のある人が自分の家の周りに三十本ほどのしだれ桃を植えたのが始まりで、大変美しかったものですから、次々と真似する人が増え、村も援助し、今では三千本になったんですよ」
なるほど、何事にも生みの親はあるものだ。科学には発見者、宗教には開祖、商売には創業者などなど、初めは一人の小さな行為や業績なのだが、後には偉大な文化となって花開くものである。そんなことを考えながら、わたしの好奇心はさらなる質問に向かう。
「その最初に植えた人の家は、どこにあるのですか」
それまでよどみなかった彼の口調は突如乱れ、「さあ」といったまま絶句、顔には困惑の表情が浮かんでいた。
交通整理の案内人にそこまで訊くのは酷だったかと思い、その場を離れた。だが、これも後で調べた情報では、その家は咲き誇るしだれ桃に囲まれた山の中腹にあった。
「あれがそうだったんだ」
わたしたちの記憶には、思い当たる家があった。藪下さんという一家がそこに住み、現在二代目の息子さんが里長となり、地域全体でしだれ桃を育てているという。
こうして花桃に堪能した一行六人は、往路と同じ経路をシャトルバスとおいでんバスに乗り継ぎ、豊田駅にもどった。
妻とわたしは仲間たちに別れを告げ、帰りは愛環鉄道とリニモを利用することにした。このほうが距離的にはずっと短いし、それにどちらも高架線で見晴らしがいいからだ。
車中の人となったわたしは、暮れ染める窓外をぼんやり眺めていた。すると眼下に広がる街並みや森林の展望は、いつのまにか今し方眺めてきたしだれ桃のそれに変わっていた。はっと我に返ると、幻覚は消えた。イメージがイメージを呼ぶというのか、類似の情景を眺めると、あの桃山の心象風景が蘇るのかもしれない。物思いに耽っていると、妻の声がした。
「ちょっと見て!」
リニモの窓から妻の指さす彼方には、今は緑一色になった万博公園が広がっていた。ここでも、イメージがイメージを呼んだ。しかし今度はしだれ桃ではなかった。脳裏に浮かんだのは、二〇〇五年に夫婦でボランティア活動をしたときの、あの華やかな人工の出し物で埋めつくされた万博会場だった。
ここから、藤が丘は近い。旅の終わりも、もう間もなくである。
(平成二十八年五月)