貴女のことは忘れない 安藤 邦男
「今度の日曜日、Uさんの家に行ってみない? 彼女の声、案外元気だったから―」
妻は最近、むかし懇意だった友人によく電話をしている。本人にはその気がないのかも知れないが、いつか迎えるべき旅支度を早々としているようだ。老人の先走った考えかもしれないが、別れの準備は日ごろからしておくに越したことはない。
Uさんは長らく体調を崩していたが、最近良くなったという。ならばどこかで昼食をしようということで、彼女を迎えに行くことにした。
その日は、朝から雲一つない真夏日であった。熱中症を心配するわれわれ夫婦は、日傘とペットボトルを携えて家を出た。
彼女の住まいは市内のS団地である。地下鉄を降りて五分ほどで到着。彼女の住宅のビルの一角で、Uさんに会った。以前と比べるとかなり痩せているが、足取りは軽く、元気そうである。
団地の前から市バスに乗り、C駅の鮮魚料理を出すレストランに行った。刺身料理を賞味しながら、昔話に花が咲いた。
はじめてUさんを知ったのは、もうかれこれ五十年も前になるであろうか。その頃、わたしはH団地に住んでいた。当時、団地では自治会を創る運動があって、何人かの有志が団地の会議室に集ってよく相談したものであった。わたしたち夫婦も誘われて、その会にはときどき顔を出していた。
彼女は女ながら、その発起人の一人になって活動していた。彼女のご主人は顔見知りの高校教師だったので、たちまちわたしたち夫婦はUさん夫婦と親しくなった。とくに妻はUさんとはウマが合ったのか、わたしたちがH団地を離れてからも、長い付き合いがつづいていた。
わが家へもよく訪れた。ちょうどその頃、わたしははじめて出版することわざ辞典の編集に没頭していた。妻を通して彼女にその話をすると、協力してもいいという。そして日曜などにわが家に立ちよって、わたしの原稿の語句をていねいにチェックしてくれた。
その後、彼女は離婚し、国語の先生として中学校に勤めながら、二人の娘さんを育てている。
あの頃の彼女は輝いていた。知的で感性も豊か、そのうえ強い正義感は活動のエネルギーに結びついていた。彼女の一生はわたしの知るかぎり、闘いの連続だった。若い頃は、地域や職場の民主化のために闘った。中年には、夫との離婚問題で闘った。S団地に転居すると、隣人の騒音問題と闘った。
さて、レストランでは、そんな思い出話が交わされたのであったが、実はそのとき、わたしたち夫婦は痛ましい現実に直面しなければならなかった。
話が進むにつれ、わたしも妻も彼女の話しぶりに何かちぐはぐなものを感じはじめたのだ。当然知っているはずのことを忘れていたり、思い違いと思われることを口走ったりするのである。だが、わたしたちは彼女を傷つけることを心配して、敢えて異を唱えることはせず、彼女のいうがままに話を合わせていた。
こうして二時間ほどの談笑の後、わたしたちはUさんを家まで送り届けた。
帰途についてからも、わたしはUさんの変わりようが脳裏を離れなかった。
明らかに、彼女の記憶力は異常をきたしている。聡明な彼女を知っているだけに、その落差の大きさが際立つのだ。すでに傘寿を超えたうえに、大病を患った後である。加齢と病後が、機能減退をもたらしたのだろうか。それとも、若いころの激しい闘いが、彼女の神経をすり減らしたのだろうか。
そんな彼女の姿を見るのは悲痛であったが、ただ唯一慰めとなったのは、彼女は現在の自分のことや毎日の生活のことについては、ハッキリ覚えていることである。わたしの認識では、昔のことはよく憶えているのに新しいことはすぐ忘れるというのが、老化現象の始まりである。しかし、どういうわけかUさんはその逆である。言うなれば、彼女の過去はすでに茫漠とした雲海の彼方を漂流している。だが、現在の生活はいまなお、記憶の荒波のなかで力泳しているようだ。
「今日」という日をめぐって、英語圏には二つのことわざがある。一つは、「毎日をあなたの人生の最後の日と思って生きよ」と、もう一つは「今日は残された人生の最初の日である」というものだ。
過去の記憶の薄れたUさんにとって、今日は人生の最後の日ではなく、最初の日なのだ。すべてが未知の、新しい始まりなのだ。それはむしろ幸せなことではないか。そこに、生きる力を見つけてほしいと思う。
心のなかで、わたしはUさんに呼びかける。いずれわたしも、あなたと同じ道をたどるであろう。過去のことは次第に忘れていくかもしれない。だが、今日あなたと過ごしたひとときの団らんと、そのときあなたの見せた笑顔とは、決して忘れることはないだろうとー。
そしていま、わたしは茨木のり子の詩「道しるべ」を思い出している。
道しるべ 茨木のり子
昨日できたことが
今日はもうできない
あなたの書いた詩の二行㊟
わたしはまだ昨日できたことが
今日も同じようにできている
けれどいつか通りすぎるでしょう その地点を
たちどまりきっと思い出すでしょう
あなたの静かなほほえみを
男の哀しみと いきものの過ぎゆく迅さを
だれもが通って行った道
だれもが通って行く道
だれもが自分だけは別と思いながら行く道
㊟ この詩は、詩人故黒田三郎氏に捧げる一編であって、「あなたの書いた詩の二行」とは、黒田三郎氏の詩集から引用した冒頭の「昨日できたことが 今日はもうできない」の二行のことである。