《わが人生の歩み》(34)
第二の人生の門出 安藤 邦男
平成二年四月、わたしはI学園短期大学の始業式に出席した。
大講堂には、和服をまじえ色取り取りの服装をした千人ほどの女子学生が、神妙な面持ちで席についていた。座席の後方には、やはり学生の数ぐらいの保護者の一団が並んでいた。
学生を挟んで両側面の窓際には、教職員の席が設けられ、その中に混じってわたしは始まったばかりの学長の式辞を聞いた。
そして、この学園で第二の人生を送ることになった経緯を思い出していた。
A高校で最後の年を迎えるころになると、いろいろの学校から退職後の再就職話が舞い込んできた。その頃はまだ少子化の始まる前のこと、私学は公立高校の退職教員を欲しがっていた。わたしの場合も運よく、二つの私立高校、二つの短期大学から声がかかった。
二つの私立高校は、いずれも元上司が校長をしている高校で、専任教諭を必要としていた。専任ともなれば、毎日出校し週二十時間近い授業をしなければならない。
その頃、わたしはやっと自由になれたのだから、専任としてこれまでと同じような授業で毎日を過ごすことはもうご免だと思っていた。できれば何もせずのんびり過ごしたい、さもなければ一週数時間の非常勤講師ぐらいならやってもよいと思っていた。そこで、しばらく考えさせてもらうことにしたが、最終的には二校ともお断りすることになってしまった。そのことはわが悔恨史の上では大きな出来事として、思い出すたび申し訳ない気持ちに襲われた。
声のかかった二つの短大のうち、一つは岐阜にあるT短期大学だったが、別の退職者と競合する羽目になり、結局うまくいかなかった。
もう一つの短大は、中学時代の友人Hが専任講師をしていたI短期大学からだったが、非常勤講師の口があるので、よかったら来ないかという。Hは、さる外資系銀行を辞めてから、早稲田大学の非常勤講師を少し勤めたあと、二年前からこのI短大の専任になっていた。ちょうどそのとき、教務部で時間割編成の仕事をしており、非常勤を推薦する権限も持っていた。
彼に内容を質すと、週二日、四~五時間の英語を担当する非常勤が不足しているという。そのぐらいの勤務だったら、自分の希望とも一致するし、よろしく頼むと返事をした。
そんなとき、その年度から新たにA校に赴任してきたY校長がわたしの退職後の希望を聞いて、その短大の学長はよく知っているから、側面から援助してあげようという。前年まで県の私学室長をしていた関係で、その学長とは親しい間柄らしかった。
二学期の始まった九月のある日、近くの附属高校に来ている学長の許へ、わたしはY校長とともに出かけた。そこで思いがけない話を持ち出された。学長の言うには、一般教育科のある教授が急に別の大学へ移ることになり、その後釜を探しているところである。よろしかったら、教授会に諮るので、至急履歴書と研究論文を出してほしいという。
友人のHに内情を聞いてみると、確かに専任が一人不足しているといい、次のように付け加えた。
「専任の勤務といっても、週六講座ぐらいの担当で、三日出講すればいいから気楽にやれるよ。それにしても、オレのような新米の分際では、せいぜい非常勤の口の世話ぐらいしかできないが、専任の話まで進むとは、さすがA校の校長さんは大物だな。専任と非常勤とでは、月とスッポンぐらいの身分の差があるからー。とにかく幸運を祈るよ」
もし採用されれば、退職後の人生としてはまことに有り難い職場だと思い、それまで発表していた諸論文をかき集め、急遽コピーを作成して提出した。次のような資料である。
・「生活記録と文学」(昭和31年) 岩波書店「文学」3月号
・「The Background of Edgar Allan Poe」(昭和44年)大修館「英語教育」十月号
・「エドガー・アラン・ポオ」(平成1年)県立A高校「研究集録」第14集
・「自由と国家」(共著)(昭和59年)(山手書房)執筆論文「情報化社会」「福祉社会」
・「生徒指導上の基本事項に関する研究」(共著)(昭和55年)S高校「研究レポート」
・「コンピュータを導入しての生徒指導」(昭和56年)学事出版「高校教育」5月号
・「生徒指導にも生かすデータ分析」(共著)(昭和56年)学研「学習コンピュータ」12月号
・「コンピュータを活用した教育活動」(昭和58年)学事出版「高校教育」9月号
・「生徒指導におけるコンピュータ利用」(昭和63年)学事出版「生徒指導」3月号
さて、資料送付後、二週間ほど経った九月下旬のある日、わたしは教授理事会の面接を受けるため履歴書を持参して、I学園に出かけた。
I市の南方に広がる広大な丘陵地帯に、学園はあった。キャンパスは、後で聞くと、中日球場が七つ入る大きさだという。そこには、短大のほかに十数年前にできた四年制大学も同居していた。
面接は学長室で行われた。三十数年前に受けた教員採用試験もこんな風だったなと想い出しながら、緊張の面持ちで入室した。学長や副学長をはじめ、各科の科長が十人ほど並ぶ面前に着席した。学長と副学長からはそれぞれ、わたしの経歴や本学園を選んだ理由、ここで教える覚悟などについて質問があった。
「これまで大学受験のための英語教育でしたが、これからは実社会に出ていく学生や家庭に入る学生たちのために、広い教養と実用を兼ねた英語教育に尽力したいと思います」
そんな意味のことを答えた憶えがある。
最後に副学長は、「エドガー・アラン・ポオ」や「生活記録と文学」などの論文を褒め、失礼ながら文学の学識もお持ちのようだから、語学だけでなく「文学概論」の講義も受け持ってもらえないかと訊く。唐突な申し出だったので、一瞬わたしは戸惑ったが、勇を鼓して、これまで四十年間、英語の授業以外受け持ったことがないので、できるかどうか少し考えさせて欲しいと、承諾の即答を避けた。
帰途につきながら、少々不安であった。学園は文学概論のできる専任を探していたのではないか。だとすれば、承諾の保留は採否に影響するのではなかろうか。
しかし、案ずるより産むは易かった。十二月初旬、副学長から、専任講師として正式採用が決定したとの電話連絡があった。そして、前回頼んだ文学概論は別の教授が担当することになったので、英語の授業だけを受け持って欲しいという。わたしとしては新しい領域への期待を込めて、文学概論を引き受ける心づもりもしていただけに、少々失望した。だが、贅沢を言える身分ではないのだ。非常勤講師を何人も抱える学園で、専任になれたことだけでも幸運だし、英語の授業だけに専念できることは、むしろ有り難いことではないかと思いなおした。早速、Y校長に報告、お世話になったお礼をいった。
式場の演台では、学長の式辞が延々と続いていた。聞きながら、わたしは残された人生をこの学園の女子学生のために捧げたいと、決意の臍を固めていた。
(平成二十八年七月)