皇居勤労奉仕団に参加する(1) 安藤 邦男
入り口の扉が開いた。待ちに待った行事の幕明けである。身が引き締まるのを覚える。
ガラス窓から差し込む明りを背に受け、そのお方はまるで光の中から現れたように神々しかった。ここへ来るまでに、何人かの人から聞いていたオーラを、目の当たりに見る思いであった。逆光のせいか、全体の姿はやや黒っぽく見えるが、テレビで見慣れたお二人のやさしい、柔和な笑顔がそこにあった。
ここは、皇居内の蓮池参集所。いまから、天皇皇后両陛下が勤労奉仕団にご会釈を賜る瞬間であった。
小学校の教室を二つ併せたぐらいの大きさの部屋には、全国からやってきた五団体、総勢二百人ほどがコの字形に整列していた。順番に進んで来られた両陛下がわれわれの前で足を止められると、わが団長Tさんはグループ名、その性格、参加人数などを言上した。すると、
「愛知県ではこのたび豪雨がありましたが、被害はいかがでしたか」
と、ご下問があった。言葉はゆっくりとしているが、一語一語ハッキリと聞きとれる気品のあるお声である。
「庄内川の上流では一部氾濫がありましたが、いまは復旧していますから、どうかご安心ください」
答えるT団長の声には、緊張の中にも落ち着きがあった。
聞きながら、わたしはあの戦争を生き延びた者たちが皇室に対して抱いていた複雑な気持ちを想い出していた。長い間、わたし自身の気持ちも屈折していたのだ。しかしいまは、両陛下を咫尺の間に拝顔できた幸運をかみしめていた―。
「ねえ、あなた、皇居へ行って天皇様に会ってみる気、ない?」
今年の春ごろのことだが、いつものように妻の言葉は唐突だった。
「表彰もされていないのに、会えるわけ、ないだろ」
「それが会えるのよ。皇居の勤労奉仕に参加すればいいの―」
初耳だった。妻によれば、皇居および赤坂御用地では、庭園の清掃作業がボランティアにより行なわれている。名古屋東部モラロジー研究所は今回も奉仕団を組織し、十月中旬に出かけるという。一行は約五〇人を予定。妻の知人がその会の幹事であり、妻はその人に誘われたとか。
調べて見ると、終戦直後、空襲で焼失した皇居の焼け跡を整理するため、東北地方の有志が勤労奉仕を申し出たことが始まりで、以来その活動は今日至るまで続いている。現在では、全国から参加した人の数は累計百二十万人を超える。奉仕の期間は連続四日間で、夏季と冬季の一部を除いて毎月行われているという。
「自分でも大丈夫だろうか? 途中で、ダウンするんじゃなかろうか」
なにしろ、人からは元気そうに見えても、無病息災ならぬ六病息災を自認するわたしである。広大な敷地の中で、毎日一万歩以上も歩くという作業に耐えうるだろうか。何度も医者に尋ねたり、経験者に確かめたりして、ようやく腹を決めたのが出発の一週間前だった。
こうして、秋もようやくたけなわを迎えようとしていた十月十六日、わたしは妻と一緒に皇居勤労奉仕の旅に出かけることになったのである。
勤労奉仕団に参加する(2)
「バスで東京までは、何時間もかかるでしょ。翌日、疲れて作業ができないじゃない?」
妻の言葉はもっともだと思って、わたしたちは貸し切りバスを断って、新幹線で行くことにした。
昼ごろ名古屋を発ち、三時過ぎにホテル・ニューオータニに着いた。バスの一行はまだ来ていない。ここに、私たち一行はこれから四日間泊ることになっていた。
早速、三鷹の次男に電話する。外出中の次男は一時間ほどですっ飛んできたが、嫁のYさんは、日曜でも塾などで忙しいという孫たちを連れて、六時ごろやってきた。
「エレベーターの中でさあ、ブランコと浅尾投手に遭ったよ! 元気なかった―。だから、話しかけるの、止めたよ」
今年、高校に進学したばかりの孫が、興奮さめやらぬ風情でいう。
「ほんとは、恥ずかしかったからでしょ」
六年の孫娘がまぜ返す。
その日、このホテルを定宿にしているドラゴンズは、巨人戦に三連敗して戻ってきたところだった。東京住まいが慣れてきたはずなのに、孫たちはいまだにドラゴンズファンを続けている。次男は言わずと知れたドラキチ、動物学でいう〈刷り込み効果〉の実例を孫たちに見る思いであった。
ホテルのレストラン街には、高級料理店がずらりと並んでいた。孫たちにも受けがよいというので、中華料理店にはいった。九月台風のために延期になっていた妻の喜寿祝いを兼ねることにし、また明日からの皇居参りの門出を祝う前夜祭にも見立て、一夜の歓談を楽しんだ。
翌日から、皇居の清掃奉仕活動が始まった。初仕事は赤坂御苑である。
五時三〇分に起床。バスの出発は七時三〇分だから、それまで用意万端整えなければならない。この慌ただしい朝のルーティンは、四日間変わることはなかった。
赤坂御苑には皇太子をはじめ、秋篠宮などの皇族の住まいがある。御苑の西門前に四列縦隊に整列し、点検を受け入門する。
奉仕団の控室に入って、作業の指示などを受ける。われわれを含めて五団体が来ているというが、団旗やバンダナの表示から、北は北海道から、南は沖縄からの人たちだとわかる。説明がすむと、それぞれが宮内庁の庭園係りに先導されて、作業現場に向かった。
わが団体は、秋篠宮家が一時住まわれていたという邸宅に赴き、小じんまりした庭に生い茂った雑草の除去作業を行なった。
一時間ほどで終わると、御苑の中心部あたりに案内された。そこには、池を巡る素晴らしい回遊式庭園があり、数日前に秋の園遊会が催された直後のこととて、庭はきれいに掃き清められていた。説明に年季の入った庭園係は、冗談をまじえながら、園遊会の模様を微に入り細を穿って解説する。テレビで見た〈なでしこジャパン〉の選手たちの姿が彷彿された。
池を前にした芝生の傾斜面で、団体写真を撮る。
昼食後は、皇太子の住まいのある東宮御所の門をくぐった。前庭は、それほど広くはない。四列横隊に並んで、待つことしばし、やがて皇太子が建物から出られた。テレビで見慣れた、あの穏やかな表情である。雅子様の姿はない。皇太子は居並ぶ奉仕団の前をゆっくりと歩き、各団体の団長の前まで来ると立ち止まって、挨拶を受け、ご下問がある。
K団長「名古屋東部モラロジーより男性12名、女性36名合計48名で奉仕に参りました」
皇太子「モラロジーではどんな活動をされているのですか」。
K団長「ご皇室の歴史と精神を中心に道徳の高揚に努めております」
皇太子「お身体を大切にして頑張ってください」
終わると、K団長の音頭で、五団体が「皇太子殿下万歳」を三唱する。
この日のメインは皇太子のご会釈であり、その後は三〇分ほど道路わきの草取りをしただけで帰途につく。
清掃作業はあっけないほどだったが、なにしろ広大な敷地、帰って万歩計を見ると一万二千歩を示していた。疲れたはずである。明日からは皇居だという。両陛下にお会いできる期待に胸を膨らませながら、慣れない旅先での眠りについた。
勤労奉仕団に参加する(3)
翌十八日は、天皇の住まわれる皇居御苑の清掃日であった。
バスは東御苑の桔梗門前に停車、整列してから門をくぐり、奉仕団の詰め所である窓明館に入った。すでに四団体がそれぞれの席に腰をおろしていた。宮内庁職員から、今日の予定として写真撮影と陛下のご会釈がある旨の伝達があった。
九時に一斉に出発。東御苑から皇居の吹上御苑の方へ向かった。初めて入った皇居の庭は、最初は植物園を思わせるような端正な刈り込みの連続であったが、進むにしたがってまばらな林道はしだいに樹木の数を増し、ついには鬱蒼たる深山幽谷に変貌していった。植物を自然のままに残したいというのが、昭和天皇のご意志であったという。
「東京のどまん中にこんな山奥のような場所があるなんてね」
「まるでアマゾンの密林ね」
並んで歩いていた隣の女性が妻と話していた。アマゾンは大袈裟だとしても、草木の生い茂る様はまさに人跡未踏といっていい。
賢所の近くにある生物学研究所の前には、刈り入れの終わった稲田があった。ここで陛下はお田植えの作業をされると説明がある。
近くの作業場で、脱穀の手仕事を一時間ほどする。稲穂から一粒、一粒のモミをはぎ取り、それを数えて引率者に報告する。一本の茎についたもみの数で、この年が豊作であるかどうかを判定するのだそうだ。
昼食後、ふたたび皇居御苑に入る。いくつかの坂道をたどっていくと、やがて石畳を敷いた大広場に出た。右手に、途方もなく長い二階建ての建物があった。長和殿といい、名のとおり、全長一六〇メートルはあるいう、皇居中随一の長い建物である。二階の部屋は閉じられていたが、新年などにはこのベランダから、天皇ご一家が一般参賀者に挨拶される光景は、テレビで何度も目にしている。
次いで正門鉄橋を渡って、正門を間近に望む芝生の庭で小休止、伏見櫓を背景に団体写真を撮る。
その後で、引率の職員からわたし自身も知らなかった新しい知識を授けられた。説明によれば、いま渡ったこの正門鉄橋(てつばし)こそが二重橋である。多くの人は、その東に位置する二連アーチ型の正門石橋(いしばし)を二重橋と思っているようだが、そうではないというのだ。正門鉄橋は、以前は木造で、橋桁が上下二段に架けられていたため、「二重橋」と呼ばれ、それが鉄橋に掛け替えられてからもその名称を受け継いでいるという。
午後二時ごろ、蓮池壕近くの参集所で両陛下のご会釈があった。その様子は、このシリーズの冒頭に述べたとおりである。
さて、皇居勤労奉仕はこの後、十九日と二十日の二日続けられたが、いずれも東御苑の道路に吹き溜まった枯れ葉の清掃作業を二,三時間行なうと、残りの時間は御苑の中の庭園や建物の見学という行事で、二日間を終えた。
とくに最終日は、忠臣蔵で名高い松の廊下跡や、弓矢などの武器の収められている富士見多門などを巡回しながら、締めくくりは振袖火事で焼失した天守閣跡の天守台に登ったのが、忘れられない思い出となった。
そこから眼下の都内を一望していると、江戸時代の面影を今に残す皇居の風物とのコントラストが、異次元の世界に置かれたような錯覚となってわたしを襲った。
過去と現代―、両者を対比させるとき、過去はいっそうその本来の姿をあらわに見せるし、現代はあらためてその意義を問いかけてくる。そんな思いに駆られながら、わたしは高台に立ちすくんだまま、林立する高層ビルの群れを見つめていた。
(平成二十三年十一月~二十四年一月)