物入りの季節
わが家の庭には不釣り合いのものが二つある。バカでかい庭石とココス椰子だ。どちらも、わが物顔に猫額の庭を占拠している。
庭石は奥の方に位置を占めているので、それほど目立たないが、ココス椰子は門の入り口にあって、いやでも人目につく。
「見事な椰子ですね。元気を頂きたいですよ」
訪れる知人のなかにはそう言って、ワニの背中のようにゴツゴツした幹を撫でまわす人もいる。
何しろ、四十年前には人の背丈ほどの華奢な若木であったのが、今では根元の周りはほぼ二メートル、梢は二階を越えて電線に接するばかりの巨木に成長してしまった。
〈大木は日陰をつくる以外に役に立たない〉という英語の諺があるが、この木はまさにそれで、暖かい冬日をさえぎり、二階からの見晴らしは台無しにされている。
のみならず、椰子の根っ子が直ぐ傍らのブロック塀の下にまで張ったせいか、あるとき気づいてみれば、塀の継ぎ目に亀裂が生じ、ちょうど境界の塀の一部が隣家に向かって傾きはじめている。これ以上傾いたら、隣家のガレージを壊すのは必定である。
「この椰子、いっそ伐ってしまおうか」
と言うわたしに、妻はどうしてもそれはイヤだという。
ならば、ブロック塀と門扉を新しく作り直すしかないということになり、去年の晩秋その工事を行ったがために、ウン十万円の出費となった。
再び英語の諺を引き合いに出せば、〈不運は単独では来ない〉のである。日本の諺にも、〈泣きっ面に蜂〉とか〈一難去ってまた一難〉とかがあるが、それを証明するかのごとき事件が持ち上がったのだ。
玄関を上がって左手に和室があるが、平素はあまり使っていない。あるとき、妻がその畳に虫の食ったような穴を発見した。
「和紙でできた畳だから、虫が食うのかナ」
と思って、セロテープで応急の手当てをした。ところが、である。しばらくすると、虫食いの跡は六畳の部屋のあちこちに出現しはじめた。しかし虫の姿は見当たらない。どうやら虫は畳の中にいるらしいというので、ためしに畳を上げてみた。驚くではないか、畳の裏側はボロボロになっているのだ。半数の畳が被害に遭っている。恐るべきシロアリの仕業であると判った。
かくなる上は畳を板張りに総替えするしかないと、和室を洋間に衣替えする工事に取りかかったのが昨年末。帰郷する息子たちの家族を、新しい門扉と洋間で迎えることができたのは不幸中の幸いであった。
それはよかったが、問題がまだあった。次男は折角の洋間が暗いから、新しいLEDライトに換えたらという。ならばついでに、わが仕事部屋も新しいライトに換えようと、その話に便乗。ヤマダ電機から購入したLED三灯の取り付け作業を、次男と孫が共同でやってくれた。
こうして、門扉に続いての部屋のリフォームは二度目の出費と相成り、ウン十万円がみごとに消えた。
「終の棲家も四十年経つと、いろんなところが傷んでくるもんだ。でも、これでわが家も安泰、当分物入りはないだろう」
「どうですか? 〈二度あることは三度ある〉というから―」
妻の言葉は杞憂ではなかった。今度は、備え付けの電気器具の不具合である。
一つは、二十年ほど前から疲れたわたしの全身をほぐしてくれていたマッサージ機である。調子が悪くなって業者に見てもらったら修理不能、買い換えるしか方法はないという。
もう一つは、これも二十年ほど前から世話になっている風呂の給湯器である。ときどき温水が出てこなくなるのだ。お調子もので、目下のところは何とかもってはいるが、いつ使えなくなるか不明、早急に買い換えなくてはならない。費用の捻出に、妻は頭を痛めている。
「人間と同じで、家や道具も老いるのネ」
そういう妻の顔には、めっきり皺が増えている。それを眺めながら、物の寿命には買い換えが効くが、人間の寿命にはそれができないと、わたしはあらぬことを考えていた。
(平成二十七年二月)