これも初体験            安藤 邦男 

(一)次男からの電話

七月一日、所属する高年大学OB会の昼食会があった。久しぶりに会う仲間たちはみな元気だったが、わたしは少々疲れていたので、二次会は失礼して帰ってきた。

居間に座って妻の出してくれたコーヒーを飲みながら、仲間たちと語り合ったいろいろの近況を思いだしていた。体調の悪い人、連れ合いを亡くした人、家族に不幸のあった人、それを思うと、今のところわが家は平穏無事、感謝しなければなるまいと思っていた。

ことの始まりを告げる電話が鳴ったのは、ちょうどそのときだった。夕餉の支度をしていた妻が出た。次男からだという。

―以下は、妻の語った話の一部始終である。

数日前、妻は次男から電話をもらっていたが、それは例年のように息子たちに送ったお中元へのお礼だった。そのときは、次男の声はすこぶる威勢がよかったが、今回はまったく違って、すごく沈んだ、かすれ声だった。

妻がわけを尋ねると、次男はいま病院へ行ってきたところだという。

「この前はあんなに元気だったのに、急にどうしたの? 風邪でも引いたの? 声も変ね」

「うん、喉がひりひりして、咳が止まらない。インフルエンザだといわれ、今もらってきた薬を飲んだところだ」

さらに続けて、

「実はいま、大変なことが起きたんだ」という。

「大変なことって何よ」と訊いても、次男はいまは言えないという。

「どうして言えないのよ。お母さんに隠し事はダメよ。Yさんと喧嘩でもしたの?」

Yさんとは、次男の嫁である。心配性の妻は気が気でない。何度もせがむと、次男はやっと口を開いた。

「あのネ、今日はボク、ある問題で上司と口論したんだ。そのうち、怒った上司は〈帰れと〉言ったんで、売り言葉に買い言葉、ボクも〈帰る〉と言って帰ってきちゃった。風邪で体調も悪かったんで、途中で病院へ寄ってきたんだ。でも、あのとき、僕は興奮していたので、よく覚えていないが、たぶんケイタイで机を叩いたか、床の上に落としたかで、壊れちゃったんだ。それで病院の後でケイタイ会社へ行って代わりをもらってきた。今から新しい番号をいうから、念のためお母さんからかけ直してよ」

悲痛な声でいう。妻は言われるままにその電話番号をかけると、繋がったので、さらに話が続いた。

「口論って何なの。」

「うん、詳しいことは、いずれまた話すよ。でも、今度のことではボクは絶対正しいんだ」

「Yさんは、そのこと、知ってるの?」

「いや、まだ話していない。彼女はまだ帰っていないし、帰ってきても、話す気はないよ。このことはお母さんにだけ話したんだから―、お母さんも彼女にはゼッタイ言わないでよ、ゼッタイにね―」

「でも、よく分からないから、もっと精しく話してよ」

「いまはダメ。明日の朝、九時か十時に電話するから、そのとき話すよ」

その夜、われわれ夫婦はいったい何が起きたんだろうかと、いろいろ推測し合った。

「あれは、頑固なところがあるから、自分の言い分を主張しすぎたのかナ」

「上司に帰れといわれて、そのまま帰るなんて、もう会社を辞める気でしょうか」

「まさかそんなことはないが、でも上司と口論するなんて、あいつらしくないナ」

「よっぽど、我慢できなかったに違いないよね。あの子は正義感が強くて、何でも精一杯頑張る子だから。短気でも起こして、取り返しのつかないことでもしたら、どうしましょう。今夜は心配で、眠れそうもないワ」

「彼の家へ電話しようか」

「それは止めて。Yさんには秘密だというからー」

というわけで、わたしたちはなす術もなく、悶々と眠れぬ一夜を過ごすことになった。

翌日、遅い朝食を取った後、思いあまったわたしは、電話してみた。しかし、家にはもう誰もいず、半ば失望するとともに、半ば安堵もした。

十時ごろ、約束通り、電話がきた。妻が私の部屋へ、受話器をもってやってきた。

「イヤだなんてダメよ。お父さんにも話しなさい」

と受話器に向かって言いながら、わたしにそれを渡した。

「もしもし、オレだ。昨日お母さんから聞いたんだが、会社で大変なことがあったらしナ。」

「うん、詳しいことはまた後で話すけど、今はまだ風邪が治らないので、声も変なんだよ。」

そういえば、昨日聞いた妻の話とは違って、今日はいつもより太い声になっていた。よほど喉を痛めたのかもしれない。

「風邪はひどいのか。気をつけなきゃいかんぞ。上司と喧嘩するなど、お前らしくないナ。それに、帰れと言われて帰って来るなんて、もってのほかだ。お前には、家族もあるし、部下もいる。勝手なことはできんゾ。詳しいことは知らないが、早速上司に謝ってこい。詳しい結果はまた後で聞くからー。それにこんな話、親にいう前にまず、Yさんに話すべきじゃないか?」

 ハイ、ハイという次男の声を聞きながら、こんなお説教をするなんて、彼が所帯を持って以来、初めてのことだと思っていた。


(二)「わが子を信じて」と言う嫁

昼食後、次男から再び電話があって、妻が出た。以下は、妻から聞いたおよその内容である。

「上司には謝ったの?」

「うん、さっき、謝って、そっちの方は何とか収まった。でも、もう一つ大変な心配事があるんだ。聞いてくれる?」

「隣にお父さんがいるから、代わろうか」

「いや、お母さんだけに話したい。だから、お父さんに聞かれない場所へ移ってよ」

 そんなわけで、妻は受話器を持って別の部屋へ移っていった。

「経理を担当しているボクの部下が株を紹介してくれて、ボクもその話しに乗ってしまったんだ。ソイツが会社の金を流用してたんだ。それがサ―、監査が急に入ることになって、穴を埋めなきゃならないの。株はうまくいってるから、現金化する少しの間だけ、お母さん、助けてくれないか」

「あんたが株に手を出すなんて、信じられないわ。いつもあんたは私に、あんなものはバクチだから絶対にやっちゃいけないと、言っていたじゃないの。それで、幾らなの?」

「千二百万。もちろん半分は部下の責任だから、残りの半分でいいんだ」

このとき初めて、妻は次男の言っていることが、おかしいなと思い始めたという。

「あなた、今どこから電話しているの?」「会社だよ」「なんて会社?」「日本企業だよ」「どこにあるの?」「虎ノ門だよ、虎ノ門」とくり返した。「可笑しいじゃないの、虎ノ門だなんて」「最近、場所が変わったんだよ」

 そういえば、次男の会社は今までにも一、二度、場所が変ったこともあったことを妻は思い出したという。だが、思いがけない出来事の連続で、すっかり気が動転していた妻は、次男の受け答えが変だとは感じながらも、まだ相手を疑っていなかった。

「幾らなら出せるの?」と、彼は畳みかけてきた。

妻はわたしの所に駆け寄ってきて、小声で〈お金を送ってくれ〉と言ってきたと告げた。「何だって!」と、わたしが言った声が聞こえたのか、彼は「誰かに相談してるの?」と問いつめる。

誰にも聞かれては困る内緒事を、彼は母親である私だけを頼って相談してきたのだと思うと、妻は息子が不憫になり、

「いや、お父さんにも誰にも相談しないから、安心して。でも、いま私の頭は混乱してるから、即答できないの。二時間頂戴。落ち着いてしっかり判断してから返事するから―」

と、妻がそこまで言うと、電話がガチャンと切られた。

〈ああ、息子よ、怒らないで! 私はまだあんたを見捨てたわけではないんだから―〉

妻は本気でそう思ったという。その時になってもまだ、妻は自分の冷たい態度を悔いるばかりであったのだ。

わたしの勧めもあって、やっと妻がYに電話すると、明るい声が返ってきた。

「あの人は元気に会社へ行っていますよ。どうしたんですか?」

妻が事の成り行きを話すと、

「お母さん、もう少し我が子を信じてください。あの人は心配事があっても、お母さんに話して心配かけるようなことは、絶対にしませんよ」という。

〈わが子を信じて〉というYの言葉を聞いた途端、妻は同じようなオレオレ詐欺らしき電話を二、三年前にも受けたことを想い出した。そのことをYに話したとき、同じ言葉をいわれたのだ。あのときは、金目当ての話ではなかったが、不用意に息子の名前を伝えてしまった。最初から息子の名を名乗って電話してきたのは、ひょっとするとその犯人だったかも知れないと思い、謎が解けた気がした。

(三)共同の創作劇 

ようやく、妻は悪夢から覚めた。そして躯中の力が抜けたのか、どっかとソファーに倒れ込んだ。

「まあ、これで済んでよかったよ。でも、耳のいいキミがなぜ、次男の声でないと見抜けなかったのかナ」

「風邪で喉をやられたというと、自分だってそんな経験があるから、そう言われると、違っていても、そうなんだと思ってしまうワ。それに、やっぱり、向こうから名前を名乗ったのも、大きかった。あれで、すっかり本人と思い込んでしまったの。思い込みって恐ろしいですね。でも、本当にうまく仕組んだ芝居でした」

「最初にドカ―ンと、相手の胸に同情心を掻き立てるクサビを打ち込んでから、少しずつその気にさせていく手口―。一種の催眠術だ。家に電話をかけさせないで、犯人のケイタイに繋がるような細工なども見事だ.オレもすっかり瞞された。いままで振り込め詐欺に引っかかる人間なんて、どうかしていると思っていたが、今度の経験で、そうじゃあないことが判った。みんな瞞されてしまうんだ。とくに、子供に甘い女親がアブナイね」

「そうですね。でも、男親のあなただって、騙されかけたじゃないの? それに、あの子が上司と喧嘩することも、ひょっとしてアリかも知れないと思ったでしょう?」

「うん、Yさんが〈わが子を信じて〉というのは、信じれば瞞されないと言いたいかも知れないが、信じるから瞞されるという面もあるんだ。敵は巧妙な物語を用意しているんだ。これまでの息子とイメージがかなり違うなと思っても、知らず識らず、相手の話に乗ってイメージ修正をしてしまうんだ。サギ物語は犯人だけの作り話ではなく、犯人と被害者が共同でつくる創作劇だと思うよ」

 話しながら、わたしは昨年度の振り込め詐欺やなりすまし詐欺の被害総額が、二百六十億円を超えるというニュース記事を想い出し、この額は増えることはあっても減ることはないだろうと考えていた。

 

  (四)二つの後日談

 

この話には、後日談がある。そんなことがあって、ちょうど一週間ぐらい後、長男がメールをよこした。英文である。なんと、ウクライナへ旅行したとき財布とパスポートを盗まれたので、ホテルを出ようと思っても請求書の支払いができず、困っている.助けてほしいというのである。

長男は一ヶ月ほど前、学会に出席するため東欧へ行っている。だから背景は合っている。しかし、彼が英文でカネオクレのメールを送ってくるわけはないので、すぐ詐欺だと判る。彼に連絡したら、アドレスをハッキングされ、わたしと同じメールをもらった何人もの友人や知人から、問い合わせが殺到したという。振り込め詐欺は今や世界的流行を来しているのだろうか。それにしても、英語の諺にあるように、〈禍は続いて起こるもの〉である。乞う、ご用心! ご用心! 

と、ここまで書いて、一件落着かと思っていたら、なんと、運命の女神はさらなる大団円を用意していたのである。

あの事件から三週間ぐらい経ったある日、妻がその電話を受けた。

「もしもし、こちらは名東警察の者ですが、振り込め詐欺のことで少々お伺いしたいことがありますが、よろしいですか・・・?」

その瞬間、妻の頭をよぎったのは、あの時の詐欺犯が今度は警官になりすまして電話してきたのではないかという思いだった。妻はいまだに、あの時のトラウマを引きずっている。知らない人からの電話には、疑いの目ならぬ、疑いの耳を貸すしかなかったのだ。

「あなたは本当に警察の方ですか? 信じられません。もう結構です」

妻が断ると、警官は

「ごもっともです。では、今から番号をいいますから、そちらから電話してください」という。

おや? それって犯人が言ったのと同じ手口で、もし相手が犯人だったらそこへ繋がるだけでないか。警察ともあろう人が―と妻は思ったが、さすがそれ以上は追求せず、NTTの電話帳でチェックすると、確かにその番号は載っていた。ようやく疑いの晴れた妻は詐欺事件のあらましを伝え、幸いなことにわが家は被害には遇わなかったことも話した。

そのとき、妻が警察から聞いた話は、だいたい次のようであった。

この地域に住む或る人が詐欺師に現金を渡す現場で、かねて張り込んでいた名東警察がその男を逮捕した。押収した携帯電話から電話番号の履歴が判った。それで、犯人の余罪を調べるために記載された番号に電話して話を伺っている。ちなみに、被害は名東区を中心に何軒にも及んでいるらしく、警察のわが家への問い合わせは、三人目だという。

さて、逮捕された男が、わたしが声を聞いたあの男であるかどうかは判らないが、それでも今回の事件が遠いマスコミの世界に起きた事件ではなく、こともあろうにわが家へ直接降りかかった騒動であったということ、しかもその犯人が予想外の逮捕に至ったということなどを考えると、わが家にも、いつ、なにが起こるか判らないという不安をあらためて感じざるを得ない。そして今は、あれから電話恐怖症におちいった妻とともに、こんなことは二度と起きて欲しくないと、祈るばかりである。                        
                     
(平成二十六年九月)