わたしのムビョウソクサイ
「ちょっと心配ですね。放って置いてはいけませんから、もう一種類クスリを増やしましょう」
W医師は、こともなくそう言ってのけた。数日前、地域のW医院へ血液検査の結果を聞きに出向いた時のことである。
三年前、わたしは『なごやか67号』(平成二十一年)に、概略次のように書いている。
― 最近は、〈一病息災〉といって、病気と共生するのが長生きの秘訣という。しかし、わたしの場合、一病が二病になり、二病が三病と次第に増え、数えてみたら今や六つである。しかし、〈六病〉を〈ムビョウ〉と読めば〈無病息災〉になるのだから、そんなに落ち込むことはないか。―
以来、自らに〈六病息災〉と言い聞かせ、病気のことは一切忘れることにしていた。そのためであろうか、わたしの健康状態は多少の紆余曲折はあったが、大事には至らず、まずまずの生活が続いていた。とくに今年に入ってからは、ことわざのボランティア講演が忙しく、それに比例して体調も良好になっていた。その矢先の〈好事、魔多し〉である。本人の意識をかいくぐって、病魔が忍び寄っていたのだ。
帰宅して、検査結果を改めて眺めてみると、BNPという項目があらたに付け加わっており、その欄には274という数字が記されている。基準値は18以下とあるので、なんと20倍近い数値である。驚いて、医師からもらった資料を調べると、この数値では〈心不全〉もかなり進んだ段階で、放置すると危険、直ちに治療が必要とある。
わたしが今通っているもう一つのM病院では、この数年、不整脈の追跡検査をしてもらっているが、そこではこの病気は生涯不治とはいうものの、今のところ心配はないといわれていた。だから投薬もなく、ただ半年ごとに心電図を撮ればよかった。それだけに、W医院での診断結果はまさに寝耳に水であった。
「あなた、先生はどう言っていたの?」
と、妻が心配して訊く。
「たいして説明はしてくれなかった。ただ、『BNPという検索語をインターネットに打ち込むと、精しい説明が表示されるから、読んでおくように』と言っただけだよ」
妻は呆気にとられたのか、厳しい詰問が追いかけてきた。
「この処方箋にはβ遮断剤と書いてあるけど、これ何のことか説明はしてもらったの?」
「いや、してもらわない」
「いったい、二人でどんな話をしていたの?」
「村上春樹の『ノルウェーの森』の話だ」
「あきれた! あなたたち、医者と患者ではないんですか」
W医師は、直接の関わりはなかったが、以前わたしが勤めていた高校の卒業生で、初診以来かれこれ二十年になる付き合いである。そのせいか、いつも雑談ばかりしていて、病状の説明は関係のチラシをくれるか、さもなければ参考になるインターネット・サイトのアドレスを教えてくれるぐらいで済ませている。わたしも、あえて質問はしない。
「文学や語学の話が多くて、なかなか病気のことは訊けないんだ。だが、医者である以上は、患者が尋ねなくても、病気の説明はすべきだよ。あの先生、好奇心が多すぎて医者の仕事には不向きじゃないかな」
「何言っているんですか。訊かないあなたのほうが悪いんですよ。わたしを相手に〈下駄箱会談〉したって、無駄よ」
〈下駄箱会談〉とは、学校での保護者会談で、担任教師に対して言いたいことが言えなかった保護者同士が、帰りぎわに下駄箱付近で交わす不平不満のやり取りのことである。妻は、わたしの愚痴がそれに似ているというのだ。
元教師の身にとって、妻の指摘は痛かった。現職時代を想い出すと、複雑な気持ちにならざるを得ない。保護者を下駄箱会談に追い込むのは何だろう。責任を問われるのは教師なのか、それとも保護者なのかー。
今回の場合も同じかもしれない。医者に訊こうとしない患者が悪いのか、それとも訊けないような雰囲気をつくる医者が悪いのか。どっちもどっちだという気もする。だがいずれにしても、損をするのは患者だということは確かである。
やはり文学談義はほどほどにして、次回は妻の言うように、病状のことや薬のことを精しく訊いてみなければなるまいと思う。
そして、縁起を担ぐわけではないが、これまで〈六病息災〉をモットーにして生きてきたわたしである。新たに〈心不全〉が加わったからといって、〈七病息災〉というわけにはいかない。今は無縁となったと思われる〈前立腺がん〉は、わたしの病歴から出て行ってもらうことにして、これからも同じ数の六病(ムビョウ)で、息災(ソクサイ)を通すことにしよう。
(平成二十四年十二月)