向田邦子の講演を聴く 安藤 邦男
前回の自分史の例会「なごやかタイム」では、会友鈴木雅澄さん持参のカセットテープで、向田邦子の「言葉が怖い」という講演を聴いた。さすが名うての放送作家、言葉にまつわる豊かな知見は、文章づくりに苦労している者の心の琴線に触れるものばかりであった。
ただそうはいっても、わたしは本来、人の話を聞くのが苦手。聞き違い、勝手解釈はお手のものである。お聴きになった皆さま方の異論は承知の上で、自分の感想を思いつくままに記してみたい。
まず、演題の「言葉が怖い」ということ。表現に繊細な心遣いを見せる向田邦子にしてこの言ありとは―、襟を正す思いで耳を傾けた。最近、新聞紙上やテレビ画面を賑わす政治家の失言や暴言のかずかず、そんなつもりでないと打ち消しても手遅れ、思慮の不足を露呈するばかりである。「口から出た言葉は他人のもの」ということわざの意味を、政治家の先生たちはご存じないとみえる。
シェークスピアの話題もあった。たしか語数が何十万もあると聞いたが、聞き間違いなら、乞うご寛恕。総使用語数ならいざ知らず、語彙は二万から三万というのが定説らしい。普通のイギリス人の使用語彙は五千~一万ぐらいというから、沙翁のそれは抜群の数を誇る。
だが、語彙もさることながら、金貸しの強欲から可憐な乙女の純情にいたるまで、人間心理のヒダの奥を熟知するこの文豪のまたの名は、「万人の心持てるシェークスピア」(コールリッジ)である。でも、男のエゴやだらしなさから、女の嫉妬や業の深さまでを描いて、他の追随を許さぬ向田女史も、敢えて言えばイギリスの文豪におさおさ引けを取らぬ。けだし、沙翁にしろ、女史にしろ、人間心理への深き洞察は、無数の登場人物を描ききらねばならぬドラマの性格の然らしめるもの、この点では己ひとりの心を後生大事に描く一人称小説が、敵うはずはないのである。
ついでながら、沙翁のことわざの引用や造語もすごい。学生時代に聞いた教授の話によれば、さるイギリス老嬢の『ハムレット』を鑑賞したあとの言いぐさが後世に伝えられている。いわく、「この劇、有名なことわざや引用句ばかりでできている」。
菊池寛の話も印象的だった。「初めに注意して、あとで褒めるのがよい」とのこと、すると最後の褒め言葉が末永く心に残り、励みになるという。しかし、わたしは教師時代から、よほどの悪ガキは別にして、些細な小言はその逆をやってきたようだ。「お前はいい奴だが、ちょっと遅刻が多い。その点は気をつけろよ」。すねに傷もつ者への頂門の一針としては、むしろその方が有効ではないかと、いささか菊池寛に異を唱えたい気がした。
外人がめったなことでは謝らないということも、話にでた。謝る代わりにウイットに富んだそれ相応のフォローをして、相手の心を和らげるという。同感して聴きながら,あるエピソードを思い出していた。わたしのホームページに投書してきたフライト・アテンダント(男性)のこと、ニューヨークが大雪に見舞われ、飛行機が飛ばない。怒って文句を言う乗客にかのアテンダント氏、謝るどころか、「後悔より安全第一」(ベター・ビー・セイフ・ザン・ソーリー)とことわざで応酬し、乗客を納得させたという。女史の話を聞きながら、わたしはこのとき、彼の伝えたかったのは「謝るよりも安全に力をいれているんだ」という言外のメッセージではなかったかと思った。
日本語の達者な外人が見る夢は、英語の夢だという話も聞いた。いくら第二言語が得意といっても,母語の影響は消えないもの、潜在意識で見る夢には,同じ潜在意識の底に根付く母語が期せずして表れるという。ここでもまた、わたしの想像力は飛翔する。昔、次男がよく英語で寝言を言った。妻はすごいといって彼の英語力を称えたが、わたしの経験からすれば、それは違う。英語が無意識に表れたとか、まして英語の夢を見たというのではまったくない。この意味のことは英語で何というか? ああでもない、こうでもないと、悪戦苦闘している思いの丈が思わず声となって表れたにすぎないのである。
最後に、向田女史の講演の結びの言葉も印象に残った。大意は次の如しである。
「さて、皆さんは私の講演を嫌な〈女どき〉ではなく、すてきな〈男どき〉として楽しんで頂けだけたでしょうか」
そう言えば、女史の著書に『男どき、女どき』があったことを思いだしていた。何もしなくても順調にいく〈男どき〉、どんなに努力してもうまくいかない〈女どき〉、そんな起伏に富む人生模様を、男女差別を匂わせる古い言葉で表現する女史の意識には、たぶん昭和時代のもつ雰囲気が染みこんでいるのだろう。そしてわたしは、女史と同時代をともに過ごしたという感慨を新たに噛みしめたのであった。
(平成二十六年十月)