《わが人生の歩み》(31)
点鬼簿 ― 子孫のための備忘録として ―
安藤 邦男
一月作品で、「巣立ち行く息子たち」のことを書いた。(参照「わが人生の歩み(30)」)。あのとき、一人ずつならまだしも、二人同時に家を離れていったことで、わたしは心に大きな穴の空いたような虚しさを感じたものだ。
だが、惜別の情は当座のものであって、永久ではない。いくら遠くに離れている者でも、会おうと思えば会える。それが救いになる。しかし、家族を喪ったときの寂寥は、他の如何なるものをもってしても軽減することはできない。それは別離の比ではない。
いま、そんなモチーフに刺激され、ここに家族の死について書くことにした。題して「点鬼簿」。暗いエッセイになるとしても、ご寛恕をお願いしたい。
息子たちの転出より遡ること三年、昭和五十五年五月にわたしは母を亡くしている。享年八十一歳。母は足の骨折がもとで寝込み、一、二年入退院を繰り返した後、ついに帰らぬ人となった。その間の事情は「動かなかった時計」(平成十九年十一月記『なごやか61号』)に詳述した。
その十年前の昭和四十四年、父は脳出血で自宅療養中のところ、たまたま実家に帰っていたわたしの目の前で息を引き取った。享年七十六歳。父の死については「自分史の入り口に立つ」(平成十五年十二月記『なごやか49号』)の文中で触れた。
だから、両親のことはそれだけに留め、以下、兄弟のことを書く。
母の死から二年後の昭和五十七年十一月、兄が亡くなった。享年五十六歳、働き盛りである。三歳年上の兄は、戦後の混乱期にいろいろの職業で一家を支えていたが、後年犬山街道沿いに食料品の店を持ち、それなりに仕合わせな生活を送っていた。しかし、兄は生来寡黙、気が弱く、なにか事があると酒に逃げ、そのため若くして肝臓をやられてしまった。そんな兄の最後は、酒が祟っての劇症膵炎による急死であった。
連れ添った義姉の言った言葉を、今でも思い出す。
「酒を飲まないときは本当に優しい、仏様のような人でした。でも、一旦酒が入ると、まるで人が変わってしまう―」
そう語った義姉も、いまは亡い。彼女は兄の死後も、幼稚園で保母を続けていたが、退職後はわれわれ夫婦とアメリカやスペインへの旅行を共にしたりして、まずまずの余生を楽しんでいた。だが、平成十五年五月、脳出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。享年七十三歳。
わたしの兄弟にはもう一人、六歳年下の弟がいた。年齢差のため、成長期にはあまり兄弟としての交わりはなかったと思う。だが、彼が中学生ぐらいになると、勉強を見てやったり、庭でキャッチボールなどして遊んでやったものだった。岐阜大学へ入った頃は、わたしの教師生活の影響を受けたのか、自宅で中学生相手の学習塾を開き、後にそのときの教え子と結婚している。
「あんまりオレの真似をするなよ」
と、わたしは彼をからかったものだ。
岐阜の繊維会社に就職した彼は、そのまま岐阜に移り住んだ。会社の覚えもよく、ロンドン支社に三年勤めたが、その後は会社の体質に失望したといい、辞めてしまった。その後は職を転々、苦労したらしいが、最後はさる予備校の講師として再出発した。
しかし、不幸は重なるものである。すでに成人していた次男を交通事故で亡くし、ついでその数年後には、彼自身に大腸癌が見つかって入院。その上あろうことか、脳梗塞を抱えていた妻に先立たれ、葬儀には看護婦に付き添われて参列した。悲しみが彼の寿命を縮めたのであろう、その半月足らず後に、彼自身も旅立った。享年六十七歳。
弟一家を襲った運命の苛酷さを思うとき、いま自分がこんな平穏な生活をしていてよいのかと、複雑な気持ちに苛まれる。
兄弟四人のうち二人は鬼籍に入り、残すは七歳若い妹とわたしである。だが、妹は生来蒲柳の質で、連れ合いの義弟によれば、いまや寝たり起きたりの毎日という。
「兄弟中、一番ひ弱といわれたあなたが、一番長生きするとは不思議ね―」
妻がいつも口にする言葉である。
どういうわけか、わたしはこの歳まで生きながらえた。無神論者とはいえ、わたしは優しかった両親や早世した兄弟の霊に支えられている気がする。むろん「六病息災」で細々と生きてきた来し方と、それを可能にしてくれた妻の尽力を忘れてはなるまい。これからも、感謝、感謝で、残された人生を全うしたい。
(平成二十七年四月作品)