《わが人生の歩み》(30) 

巣立ち行く息子たち               安藤 邦男

 

その頃、大きな変化はわが家庭にも及んでいた。二人の息子たちが共に雛鳥が巣立つように、住み慣れたわが家を出ていったことである。昭和五十八年四月のことだ。

「あの子たちの居た部屋は、当分そのままにしておきましょうか」

伽藍堂になった階上の二部屋を眺めながら妻がそう言ったとき、わたしははじめて大事なものを失ったときの寂しさと悔いに見舞われた。もっとも、その部屋は数年後には改修し、今ではわたしの書斎兼仕事部屋になっているがー。

N大学を卒業した長男は、高槻市にあるS化粧品会社に就職し、その社宅に入った。時を同じくして、高校を卒業した次男はK大学に無事合格し、京都に下宿することになった。

こうして、妻と二人だけの生活が始まったのである。

胸に宿った空虚は、まるで穴埋めするかのように、頭の片隅から思い出を引き出すものである。ようやくわたしに、子供と過ごした歳月が蘇った。

二人の兄弟は四歳違いであるが、彼らの幼稚園時代や小学生時代は、世の親のご多分に洩れず、それなりに子供孝行をしたつもりである。ただ、子育てについてはまったくの妻任せであったのが、少々悔やまれる。

「あなたは教育者なのに、自分の子供は教育しないのね」

妻はそう言って、よくわたしをなじった。子供に対して熱愛型の妻は躾にも厳しかったが、わたしは逆に放任主義を通していた。

そうは言うもののただ一つ、わが家で中高生になった息子たちを直接に教えた経験があった。長男と次男を、わたしを頼ってやってきたそれぞれ同学年の近隣の子供たちの中に入れ、一緒に英語を教えたことである。

当時、英語は文化系と理科系とを問わず、共通の入試必須科目であり、それだけに世間では特別英語学習への要望が強かった。もっとも、英語教師の自負はそこにあるのではなく、英語を勉強するには文系と理系のいずれの能力も必要であるし、また英語を勉強すればどちらの能力も伸びるという認識がひそかな誇りでもあった。自慢する気は毛頭ないが、多分その証拠に、わたしの家に通った生徒たちも、有名大学へ合格していった。

「息子たちが今日あるのは、あなたが英語を見てやったお陰ね」

妻はわたしの放任主義には不満であったが、英語の面倒を見てやったことだけは感謝しているようであった。同時に、それはわたしの心の救いでもあった。だが、それはたまたまたまわたしが英語教師であったからにすぎない。もしそうでなかったら、息子たちへの勉強を買って出ることはなかったろうと思う。

それにしても、親が子供たちと一緒に過ごす時間は、その後の夫婦二人で過ごす時間とは比べようもないほど短いことを、この歳になってあらためて実感している。

「遠ざかるほど思いが募る」というという諺がある。そのせいかどうか知らないが、二人の息子は盆暮れはもちろん、事あるごとに家族連れで帰省してくれる。親としては、もって瞑すべきかも知れないと思っている。

                     (平成二十七年一月作品)