《わが人生の歩み》(29)
『自由と国家』の執筆と編集に携わる 安藤 邦男
昭和五十八年、わたしはS高校で教頭職に就いた。
愛高教(愛知県高等学校教職員組合)の推し進める管理教育反対、県教育行政反対の旗印に同調し、組合の執行委員までしていた男が、よもや管理職になるとはー、そんな声が職場の内外からわたしの耳に聞こえてきたし、わたし自身もそこには複雑な思いがあった。
一方には、敵の軍門に降ることではないかという危惧の念もあったが、また一方では、今さら敵も味方もない、同じ教師集団ではないかという開き直った気持ちもあった。そしてその感情は、わたしの心の中で次第に優勢になっていった。そうだ、いま問われているのは、教育の外的条件よりも教育の中味ではないか。わたしはひそかに、そうつぶやいた。それに、民主教育を否定するわけでもなければ、職場の声を押さえつけるわけでもない、いやむしろ、自由にものの言える、働きやすい雰囲気をつくることに、微力ながら貢献できるのではないか、少なくとも職場の意見を、行政に反映できる機会もあるのではないか、そんな希望的観測もあった。
そうは言うものの、それが安易に実現できるような問題ではないことも、わたしには解っていた。それでいて、なおかつ楽観的考えに固執するのは、いわば己の良心に対する欺瞞ではないかという思いもあった。職場の中には依然として管理職対一般職員の溝があったし、一般職員の中にも組合員対非組合員の対立が、陰に陽に渦巻いていたからである。
そんな職場の空気の中で悩みながらも、その年から翌年にかけて、わたしは教頭職としての教育実践とは直接かかわりのない仕事を二つしている。
一つは、S校長の進めたコンピュータ教育を総括する論文「コンピュ―タを活用した教育活動」を書いたことで、これは学事出版『高校教育』九月号に掲載された。
もう一つは、その頃F校長の主催する『自由と国家』を出版するティームに加わり、論文の執筆および編集の仕事を手伝ったことである。
『自由と国家』は、「一般社会」科目の副読本を目指したもので、その発行の準備のために共同執筆者は約五十名、編集委員七名から成る一大プロジェクトが組織されていた。わたしはその編集委員に名を連ねることになり、約二年にわたって二十編ほどの論文の編集作業を行った。そのかたわら、わたし自身は「情報化社会」と「福祉社会」という二編の論文を執筆した。
同書は、当時京都大教授であった勝田吉太郎氏の監修で、翌五十九年七月に山手書房から出版されている。日本社会の仕組みや日本文化の特色を解説し、日本人としての誇りを自覚させることを目的としているだけに、組合その他からは戦後教育の否定ではないかという批判があちこちでなされた。
提出した「情報化社会」の原稿は、プロジェクトの分科会でいろいろ注文が出され、何度も書き直した。しかし、情報化社会は急速に進みつつあり、この現実に対処するには右も左もない、すべての国民が、とくに若い人たちが真摯に向き合わなければならない問題であると思い、その立場をわたしは崩さなかった。
編集作業の途中で、福祉に関する原稿が欠落していることが指摘され、急遽、わたしが執筆者に指名された。多分、かつて経済学を学んだという経歴のせいであろうが、わたしにしてみれば、経済学にうんざりしたがために文学部へ転身した経緯を持った男である。そんな過去の苦渋は口外できないまま、数か月を四苦八苦の末、ようやく「福祉社会」を脱稿したことを憶えている。
その中で、福祉の概念を構成する三つの要素として、わたしは「公助」「相互扶助」「自助」を挙げ、その中でとくに大切なものは「自助」の精神であると説いた。これに対して、それは「公助」をないがしろにする思想であるという批判を受けた。しかし、福祉社会の目指すものは、経済的に個人を援助することによって、自立を促し、生きがいを与えるものではないか。これこそが「自助」であるという考えは、今も変わらない。
こうして、昭和五十九年は過ぎていった。五十四歳のことである。
(平成二十六年十二月作品)