《わが人生の歩み》(28) 

組合を離れる                     安藤 邦男

 

昭和五十六年、世の中は、次第に落ち着きを取りもどしつつあった。

この年、わたしはS高校の生活指導部から教務部の仕事に変わっている。S校に転任してきてから、すでに十年が経過し、心にはゆとりができていた。新参者の緊張感からも解放されていたし、校内でもかなりの古株として、おのれの居場所に安らぎを感じていた。

思えば、昭和四十六年、この学校へ転勤したころは、まだ七十年安保闘争(昭和四十五年)の余波が吹き荒れていて、校内は何かと慌ただしかった。それがこの十年で、あの騒動は何であったのかと思わせるほど、内外の空気は沈静化していた。

時代の趨勢は、やがて始まろうとしていたバブル景気を予感させるように、政治から経済へと傾斜していた。わが属する教職員組合も、安全保障条約反対の政治闘争から人事院勧告実施を要求する経済闘争へと方向を転換、人びとの意識も、変わりはじめていた。

そしてわたし自身の考え方も、変化の兆しを見せつつあった。それをもたらしたものの一つに、浅間山荘事件がある。

昭和四十七年、浅間山荘に閉じこもった赤軍派は、警察と激しい攻防戦を繰り広げ、その様子は全国のテレビに放映された。その映像はあまりに生々しく、果たしてこれが現実のものかと、わが目を疑うほどであった。さらにそれより衝撃的だったのは、その同じ赤軍派による凄惨なリンチ事件が、後日、発覚したことである。総括という名のもとに、同派のメンバー十二人が、こともあろうに志を同じくする仲間たちに惨殺されたのであった。

大学卒業以来、わたしは教職員組合員として、日本の平和と民主化の運動に微力ながら尽力してきたという思いがあった。だから、理想に燃える若き学生たちの改革運動には共感するものがあり、少しばかりの行き過ぎがあったとしても、それは反権力の情熱の表れとして、大目に見てもよいではないかと考えていた。

しかし、今回は違っていた。彼らの行動は、わたしの理解の域をはるかに超えていた。疑問が次々に湧いた。同じ理念にもとづく仲間同士が、なぜ殺し合わねばならないのか。お互いの思想の相違には、通じ合えないほど隔絶した溝があるというのか。彼らの信念は、相手を抹殺せずにはおかれないほど過激で、妥協の余地は皆無だというのか。

このときはじめて、わたしは思想や信念のもつ一面の恐ろしさを目の当たりに見た思いだった。いや、正確を期して言えば、思想や信念を実現するための行動には、そのような非人間性が内在するという事実に戦慄を覚えたのであった。

考えて見れば、些細な意見の相違から生まれた不信感がやがて憎悪を招き、ついには殺人へ至るという赤軍派の辿った軌跡は、愛と正義を信奉する一神教が殺戮の宗教戦争に至る過程と驚くほど似ていないだろうか。そこには、一神教のもつ悲劇的な宿命があるように思われる。

この手記を書いている現在も、イスラム国のテロは世界の各地で頻発している。古くて新しいキリスト教とイスラム教との対立である。ちなみに、米政治学者サミュエル・ハンチントンは、ソ連崩壊後はイデオロギーの対立に代わって、宗教対立が世界史を動かすと予言したことを思い出す。

むろん、平和運動は宗教とは違うであろう。しかし、理想社会を求める信念のレベルでは同じではないか。理想社会を実現するためには、人は個人的な欲求やエゴイズムを捨て、人びとの自由と平等のために、理性と正義に基づく行動をしなければならないという。だが、人間である以上、そこには動物学上の自己保存と種族保存の本能がある。競争心もあるし、嫉妬心もある。物欲もあるし、出世欲もある。それらを理性の力で最小限にセーブしてこそ、はじめて平等社会は実現できるのではないか。しかし赤軍派にはそれができなかったのみならず、人間としてあるまじき道を選んだ。それが、かつて共闘した民主化勢力に大きな打撃を与える結果になるとは、そのときの彼らには思いも寄らぬことであっただろう。

 そんなこともあって、わたしは次第に組合運動から遠ざかっていった。しかし、心のうちは平静ではなかった。いうなれば、これは一種の「転向」ではないかという疑念が胸の中に渦巻き、事あるごとにわたしを責め立てたからである。わたしは転向問題を扱ういろいろの本や雑誌に当たって、転向とは何かを自分なりに理解しようとした。その頃、鶴見俊輔の主催する雑誌『思想の科学』が、転向問題を取り上げていた。そこでは、転向には大まかにいうと二つの意味があるとしていた。

狭義には、戦前の共産主義者や社会主義者などが権力の強制によってその思想を放棄することを言ったが、戦後はより広い意味に使うようになり、戦時中、体制側に進んで協力した自由主義者や社会主義者たち、そして戦後、学生運動の闘士から会社人間に転身した若者たち、彼らが見せた思想や信条の変化も、転向という概念に含めるようになったという。

さらに、転向問題には著しい特徴があった。それは日本人の情緒的性格に結びつくもので、敗北感や挫折感、それに罪悪感などが伴い、これが欧米の転向や改宗とは大いに異なる点だという。その意味では、わたしはまさに日本人であった。組合活動に背を向けることは、それまでの仲間を裏切ることではないかという、ある種の後ろめたさに苦しんでいたからである。

こうしていろいろ考えているうちに、わたしは『思想の科学』などの雑誌が取り上げていない問題が一つあることに気づいた。それは、あの昭和二十年、「一億総懺悔」の合い言葉で受け入れた「敗戦」のことである。あのとき、人びとはみな軍国主義を捨て民主主義者になったのではないか。あれほど大規模でかつ劇的な転向はないはずだ。あのとき、人びとは煮えたぎる意識のなかでどんな思いをしたか。それを転向と言わずして、何を転向というか。その転向を経験したからこそ、今日の平和があるのではないか。

こう考えると、わたしはやや救われた気がした。そして少しずつ、転向アレルギーは解消されていった。

英首相チャーチルは、

「二十歳で自由主義者にならない者にはハート(愛情)がないが、四十歳で保守主義者にならない者にはブレーン(知能)がない」

と述べたという。

サイパン島から奇跡の生還を遂げた叔父は、このチャーチルの言葉を知ってか知らずか、よくわたしに語ったセリフがあった。

「二十代で左翼にならない者は馬鹿だが、三十代でまだ左翼でいる者も馬鹿だ」

ブレーンがないとか、馬鹿だとかいう表現には違和感があるが、しかし若いころ、冷ややかに、ときには反発して聞いたそれらの言葉は、わたしの心の中で次第に重みを増していった。

そして、ついに組合を離れる日がきた。昭和五十八年のことである。