ボランティア、情けは人のためならず
「もしもし、S高校で先生に教えていただいたT・S子です。お分かりですか」
突然の電話であった。聞けば、もう三十年も前のことだという。名前を聞いただけで思い出すなんて、できるはずはない。
「顔を見れば想い出すかもしれないがー」と答えると、
「じゃあ、会って下さい。講演をお願いしたいですからー」とたたみ掛ける。
藤が丘駅前のスターバックスで会うことにした。対面すると、長い歳月が一挙に吹っ飛んだ。まるで何かを訴えるような、それでいて相手の心の中を見通すようなあの眼差しは、かつての魅力をいまだにたたえていた。
自己紹介によれば、彼女はいま名古屋市の福祉協議会に勤めていて、〈はつらつ〉という高齢者向きの講座を担当している。〈はつらつ〉講座は、各学区にあるコミセン(コミュニティセンターの略)で毎週行われているが、そのうち八カ所で講義をして欲しいというのだ。テーマは〈東西のことわざについて〉、むろん最近出版した拙著の紹介でも結構だという。話し合いの末、秋の講座も担当することになった。
げに、もだし難きは教え子の頼みというべきか。かくて、ボランティア講座の始まりとなった次第。
「あなた、大丈夫ですか? 大変ですよ」
「なに、大変なものか。〈相手変われど主変わらず〉で、同じことを繰り返せばいい。準備の労力は要らないから、大丈夫。ただ体力は要るがねー」
妻は夫の健康を心配して、毎回コミセンに付き添ってくる。たしかに、一時間半の講義は疲れないと言えば嘘だが、それで体調を崩すということはない。いやむしろ、調子は上々である。現職時代の職業意識も蘇り、久しぶりにしゃべることに情熱を感じはじめていた。
ところが、〈はつらつ〉講座の八回分が終わるころになると、どこで噂を聞いたのか、いろいろの会やサークルから講演依頼が舞い込んできた。〈乗りかかった船〉とばかりに引き受けていたら次々に増え、すでに予定されている〈はつらつ〉の後半部分を合わせると、これから先十数回やらねばならぬ羽目となった。
「あなた、もう引き受けないでよ」
と、妻が言う。わたしもこの辺が限界かなと考えている。
さて、これまでやった講演や講義の受講者は、多いときは数十名になるが、少ないときは十数名、そのほとんどは中高年の女性である。講義というより、座談会形式になることもある。みんな気軽に参加できるように、クイズを多く採り入れているので、問答をめぐって賑やかな談笑の花が咲く。
人気の高いのは、日英の愛情表現の違いについての解説である。
「英米では〈アイ・ラブ・ユー〉を言わなかったことが離婚原因になるというのは、あながち笑い話ではありません。彼らには〈口は心の思うことをしゃべるもの〉という信仰があります。〈アイ・ラブ・ユー〉を口にしないのは、愛がない証拠とされるのです」
「へえー、そうですか。日本人は逆ですね。〈以心伝心〉〈言わぬが花〉ですからー」
「そう、〈秘すれば花〉は、とくに日本人の愛情表現にピタリですね。いまの若い人はそうでもないようですが、昔の女性は、相手に〈好きです〉が言えなかったのです。だから当時の文豪たちは、西洋人女性の言う〈アイ・ラブ・ユー〉を日本語に移すのに苦労しました。二葉亭四迷、米川正夫、夏目漱石が、それぞれどう訳したか考えてください」
「判りません。そんなこと、これまで言ったことのない者に、判るはずないじゃないですか」
ひとりが答えると、みながどっと笑う。
「では、わたしが皆さんの気持ちを代弁して差し上げましょう。(笑い)―言文一致運動のリーダー二葉亭は〈私、死んでもいいわ〉と訳したし、同じ箇所をロシア文学者の米川はおのれの特徴を出すべく〈私、あなたのものよ〉と訳しました。人間嫌いの漱石は〈月がきれいですね〉とでも訳せと、学生に言ったと伝えられています」
話がその箇所に及ぶと、女性たちは一斉に驚嘆の声をあげる。
むろん、硬い話もする。
「ことわざを巧みに使うと、文章や談話が格段にうまくなりますよ。天声人語や中日春秋などのコラムは、ことわざを枕にして論旨を展開することがよくありますね.説得力が増すのです」
「ことわざの論理は〈対比と逆転〉だと言われましたが、具体的に教えて下さい」
「ことわざはものを相対的に眺めます。〈苦あれば楽あり〉とか〈どの雲も銀の裏地をもっている〉とか言って、両面を見るのです。これを複眼の見方と言います。必ずしもことわざを知らなくてもいい。ものごとを対立的に捉え、逆転させるというテクニックをものにすればいいのです。例えばですね、野田首相が民主党の総裁選で前原氏に逆転勝利したのは、演説のうまさだったと言いますね」
「どんな話でしたか」と、誰かが尋ねる。
「相田みつをさんの詩を引用し、〈ドジョウがさあ、キンギョの真似することねんだよなあ〉といいました。正反対の二つのものを対比させ、自分はキンギョでなくドジョウとして国民のために働きたいー。これなど、まさにことわざの発想そのものです」
「それで想い出しましたが、むかし大河内一男という東大総長が〈太った豚より痩せたソクラテスになれ〉といったのも、対比の論理の応用ですね」
一番前に座っていた白髪の男性が口をはさんだ。こういう意見が出れば、しめたものである。講義の成否は、聴衆の参加にかかっていることを改めて知る。
この二、三回、最後の締めとして、次の英語ことわざを板書している。
〈毎日をあなたの人生の最後の日と思って生きよ〉
〈今日は残された人生の最初の日である〉
「皆さん、この二つの英語ことわざを憶えて下さい。どちらも、今日という日をどのように生きるかを教えることわざです。ひとつは、過去をふり返り、今日を最後の日として、つまり明日無きものと思って生きなさい、ということです。もうひとつは、将来を見据えれば、今日が最初の日となりますね、だから今日が自分には一番若い日だと考えて、残りの人生を生きなさい、ということです。さて、あなた方はどちらの生き方を選びますか」
前回、この質問をして終わろうとしたら、すかさず質問が返ってきた。
「先生はどちらを選びますか」
「うーん、そうですね。わたしはー、いや、いや、ご自分でお考え下さい。これは皆さんへの宿題ですからー」
意表を突かれてしどろもどろだった。〈問うは易く、答うるは難し〉である。
(平成二十四年七月)
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