―分身との対談でつづる―
夏目漱石『こころ』を読んで
【註】 この文章は、私自身の感想を「AとBの対談」という
形式で綴りました。Aは私自身、Bは私の分身です。
(1)「遺書」を引き立てるプレリュード
A・さて、今日はボクの分身として、対談をしてくれることになり、ありがとう。
B・いやいや、ところで先日は〈読書クラブ〉の第一回例会だったね。どうだったの。
A・まずまずの出来だったと思うよ。参加者は全部で十二名、それぞれ感想を言ってもらえたしね。ただ、自己紹介や〈読書クラブ〉の内規の話し合いなどがあって、『こころ』については正味一時間しかなかったのが残念だったよ。それに、ボクはレジメの報告者と司会者を兼ねていたから、自分の感想もあまり言えなかったしね。
B・そうか、じゃあーここでそれを聞こうじゃないか。たしか、キミが読んだのは今回が三度目だったね。
A・そうだ。はじめて読んだのは学生時代だったと思う。そのころ、漱石は好きな作家の一人で、主だったものはたいてい読んだが、その中でも『こころ』は強い印象を受けた作品として忘れられなかったよ。二回目は五〇歳前後のころで、高校生の次男が読んでいた文庫本がたまたま目に入って読んだんだ。三回目が今度だったのさ。
B・それでどう? それぞれ感じ方は違っていたのではないかな。
A・そうなんだ。初めのときは三角関係が昂じての自殺話ぐらいに思っていたが、それだけじゃあないんだな。ずっと深い話だということが、だんだんわかってきたよ。
B・その通りだ。〈人間は自分の持つ縄の長さだけしか物を測ることができない〉というが、経験の浅い若者に判らないことも、経験の〈縄〉が長くなるにつれて、それまで判らなかったことが判るようになるんだねー。
A・経験の長い短いはさておき、人間はだれでもその人独自の〈縄〉を持っているから、それぞれの感じ方が違うんだ。読書会での感想戦が面白いのは、そのためだろうね。
B・それでは、キミの感想を聞く前に、ざっと『こころ』のあらすじを話してくれないか。
A・わかった。物語は「上・先生と私」、「中・両親と私」、「下・先生と遺書」という具合に、三部構成になっているのだが、『こころ』のメインは「下」にあるんだ。「上」と「中」はいわば序曲のようなもので、「下」を引き立てるために書かれたようなものだ。そこで「上」なのだが、ここでは学生の「私」が夏のある日、避暑先の鎌倉海岸で「先生」と知り合うことから始まっている。「先生」の物静かな態度と豊かな教養に惹かれた「私」は東京に帰ってからも、「先生」のお宅を訪問し、奥さんとも知り合いになる。だが「先生」は何か秘密を隠している。毎月雑司ケ谷墓地に墓参りに行くが、それが何故かは不明。このあたり、サスペンス風で読者の好奇心をそそる構成だ。
B・たしかに面白そうだね。それで、「中」は?
A・大学を卒業した「私」は、実家の両親の許へ帰る。両親は「私」の卒業を心から喜ぶが、父親の腎臓病が次第にひどくなり、東京へ戻れなくなる。そのうち父親の最期が近づいたとき、「先生」から長文の手紙が来る。それは「先生の遺書」で「この手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう」とある。驚いた「私」は瀕死の父を残して東京へ旅発つ、というところで「中」は終わる。
(2)死を描いた『こころ』がなぜ好んで読まれるのか
B・なるほど。すると「下」では東京に帰った「私」が「先生」の死に出会うところから始まるのかね。
A・いや、そうじゃないんだ。「下」は「先生の遺書」と副題があって、いきなり「先生」の遺書で始まり、遺書で終わっている。
B・え? それで終わり? じゃあ、「私」は「先生」の死に直接会っていないの?
A・そう、「先生」がどのようにして亡くなったのかとか、残された奥さんがどうなったとかはまったく書かれていない。そればかりでなく、故郷に残してきた「私」の父親がその後どうなったのかも判らない。
B・へー、ちょっと変わった構成だね。道理で『こころ』を読んだ人の中には、「上」「中」「下」の次に第四章を書いて欲しかったという人がいるわけだ。だが、それはいいとして、「私」が実の父親の臨終を見捨てて、いわば他人の「先生」の許へ駆けつけるという部分はどうなの? 「私」の行動としては、少々腑に落ちないところだがー。
A・うん。漱石は肉親の絆より「先生」との師弟愛のほうが、はるかに強いことを言いたかったのだろうが、やや引っかかるところだ。
B・ていうか、ボクには許せないという気がするんだよ。だって、「先生」は「私」が真面目なるが故に遺書を託したはずなんだからさ。本当に真面目な人間だったら、親の最期を見捨てたりするか。それはさておき、「下」の「先生の遺書」の内容に入ろう。
A・ここでは、自殺を覚悟した「先生」が自分の過去をすべて「私」に告白している。まだ学生だったころの「先生」が軍人の遺族の奥さんとお嬢さんのいる家に下宿していると、そこへ親元から勘当されている友人の「K」がやって来ていっしょに住むことになる。そのうち、「K」はお嬢さんに一目惚れしてしまい、そのことを「先生」に打ち明ける。ところが「先生」は前からお嬢さんが好きだったので、先を越されては大変とばかり、「K」に無断で奥さんにお嬢さんとの結婚を申し込んでしまう。
B・それはひどい。完全な裏切り行為だね。
A・そう。それを知った「K」は、数日後に自殺。「先生」は深い自責の念に打ちひしがれる。やがて「先生」はお嬢さんと結婚したが、「K」との経緯は彼女には秘したまま、何年か過ぎる。明治天皇が崩御し、乃木大将が殉死したとき、「先生」は自殺を決意、明治の精神に殉死するという遺書を「私」宛てに書く。―と、だいたいこんな内容だ。
B・「K」も自殺、「先生」も自殺とは、まったく暗い話じゃないか。でも『こころ』は出版以来今日までその売り上げは、六百万冊とも七百万冊とも言われるほど断トツのベストセラーなのだが、その理由は何だと思うかね。
A・一部が高校の現代文教科書に載っているので、若者は全部を通読してみたい気になるのではないかな。それにね。この遺書のなかで「先生」は「なぜ自分が死ぬのか」を語っていると同時に、「いかに生きるべきか」を説いているんだ。だから、この、先の見えない、不安定の時代を生きる多くの人たち、とくに若者たちに、それが受けるのではないかな。
(3)ストイックな「K」はエゴイスティックな「先生」の分身か
B・では、次の話題に移ろう。「先生」はなぜ、自分の妻でなく、若い「私」に遺書を託したと思う?
A・そうそう、その点はボクにも答えるだけの確信はない。ただ、漱石は読者の想像に訴える仕掛けを、いつくか用意している。一つは「先生」が「私」と知り合ったころ、 「適当な時機」がきたら「私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう」と約束していることだ。二つ目は、遺書にも書かれているように、「先生」は自分の過去を若い「私」が知ることは、「人間を知る上」で、決して無駄ではないと思ったからだと思う。三つ目は、自分の妻だけには「先生」の過去に対してもつ記憶を「なるべく純白に保存しておいてやりたい」という、「先生」の妻への思いやりではないかな。
B・ちょっと待った。前の二つは納得するが、三つ目の〈妻への思いやり〉はどうかな。「先生」の「K」に対する仕打ちだとか、「K」の遺書に「先生」のことが書かれてなくて胸を撫で下ろしたことなど考えると、妻にもほかの誰にも、自分の弱点を知られたくないという、〈利己心〉というか〈自己保身〉のホンネが透けて見えるんだがー。
A・そうかも知れない。「先生」は「K」と比較すると、かなり自分本位な点があるから。
B・というより、エゴイストではないかな。親の遺産にたよって、働くでもなく、人のために何かをするでもなく、ただ、ぶらぶら好きな読書や思索に耽る、いわば高等遊民だよね。その点、「K」は仏門の出だけに、ストイックで朴訥、一途に純粋さを求める求道の士。この二人はかなり対照的だね。
A・そういえば、NHKの「100分de名著」で、姜尚中(カンサンジュン)さんが「K」は「先生」の分身だと言っていた。つまり漱石は、人間の心の中にある〈善〉と〈悪〉を、「K」と「先生」というふたりに仮託して、造形したというんだね。
B・なるほど。分身といえば、キミの好きなエドガー・アラン・ポオの『ウィリアム・ウィルソン』が有名だが、その話にも関連がありそうだな。
A・そうだ。簡単に紹介すると、こうだ。寄宿学生のウィリアム・ウィルソンの前に、同姓同名で顔かたちもそっくりな青年が現れ、ことごとく彼の邪魔をする。彼は思いあまってその男を殺す。するとその男は、「オマエはオレを殺したつもりだが、実は自分自身を殺したのだ」といって死ぬんだ。漱石はポオを読んでいたかどうか、定かでないが、「K」が死んだ後、「先生」が生ける屍となり、最後には「K」の跡を追って自殺するというストーリーは、まさに「K」が「先生」の分身、つまり「先生」その人だったという解釈も成りたつね。
B・そう言われれば、その通りという気もする。でも、分身だというカンサンジュンさんの説はしばらく措くとしても、「K」と「先生」のように、同じような文脈の中で性格の異なる人物を対比させるのは、それぞれの特徴を明確にする手段としてはたしかに有効だね。
A・まさにその通り。漱石は他にもその手を使っているので、それについて話そうか。
B・うん、いいけど少々長くなったから、しばらく休憩してから聞くことにしよう。
(4)心の癒やされる「先生」の故郷
B・少々休憩して、頭もスッキリしたから、じゃあ続きを始めようか。
A・うん、前回キミが言ったように、ある人物の特徴を説明するには、正反対の人物をもってきて比較するのがいちばん早道だね。漱石は「先生」に配するに「私」の「父親」を置いたんだ。一方の「先生」は外国人とも付き合いのある、いわば文明開化を体現したような知識人であるのに、もう一方の父親は田舎暮らしの古いタイプの人間で、帝大出の自慢の息子が出世してくれるのをひたすら願っているんだ。
B・なるほど―。明治という時代は、近代化を成し遂げた一方、片や封建的な名残りが習慣のうえでも意識のうえでも、色濃く残っている時代でもあるからね。漱石はその矛盾を、「先生」と「私の親」という二人に象徴させているわけだな。
A・そう―、ボクはね。『こころ』全体のなかで、「中・両親と私」の部分がいちばん好きなんだ。両親も近所の人たちも「私」の帰郷を喜んでくれ、皆で卒業祝いをしようと相談するところがあるね。あの時代の村落共同体の雰囲気がよく出ていて、懐かしかった。だが、それに溶け込めない「私」―。そして父親はただ将棋の相手をするしかない存在―。このあたりの描写は、ボク自身の過去とも重なるし、現代の青年たちの心理にも通じるものがあって、漱石の知見の高さと観察眼の鋭さにあらためて感嘆したよ。とくに、昔気質の母親の息子を思うこころ根には、心の癒やされるものがあるし、ジーンとくるところもあるね。
(5)「K」はなぜ自殺したか
B・そうだね。ボクも同じ思いだ。でも先を急ごう。「上」といい、この「中」といい、キミの言うように「下」のプレリュ―ドに過ぎないんだから―。早く本題の「先生と遺書」に入ろうよ。
A・オーケー。じゃあ―、まず「先生」の下宿先の「奥さん」と「お嬢さん」を取り上げてみよう。「奥さん」は戦死した軍人の未亡人であるだけに、しっかり者で、「先生」に対する態度など、かなり打算的なところも見られる。このあたり漱石の描写は鮮やかだね。
B・そうそう、「お嬢さん」の描き方などもそうだよ。『三四郎』などに出てくる女性などと似て、男心を揺さぶる小悪魔的存在だね。それに翻弄され嫉妬する「先生」の心理描写もすごい。
A・漱石作品にはそんな三角関係に似たストーリーがよくあるが、漱石の原体験があるのではないかと思う。若いころ、漱石が失恋した相手というのは、大塚楠緒子(なおこ)といわれ、この名前は『硝子戸の中』にも出ているよ。
B・そうか、実際の体験がなければ、あんなにリアルには書けないか。
A・その小悪魔的な「お嬢さん」の振る舞いに、「K」は男ごころをくすぐられ、一目惚れしてしまうんだ。
B・ふむ、「恋は罪悪だ」とは「先生」の言葉だが、「先生」にそう言わせた罪は、実はお嬢さんにあると思う。「お嬢さん」は「先生」に優しいかと思えば、内緒に「K」とデートしたりで、明らかに二股をかけている。彼女は「K」の死後、「先生」と結婚しているが、本当は学問も性格も「先生」よりすぐれている「K」のほうが好きだったのではないかな。「お嬢さん」の本心がイマイチわからないが―。
A・「奥さん」が「先生」のプロポーズを即決して受け入れたのは、「先生」が財産家だってことは判るが、それ以外は判らないね。漱石が微に入り細を穿って詳述しているのは、「先生」と「私」の「こころ」の深淵であって、「K」や「お嬢さん」の「こころ」は謎のまま残されている。
B・謎といえば、『こころ』にはミステリアスな部分が多いね。「K」がなぜ自殺したか、なんていうのはその最たるものだ。キミはどう思う。
A・死に至るほどの絶望があったのは確かだが、絶望のよって来たるところは読者の判断に任されていると思うよ。「先生」は「K」から「お嬢さん」が好きだと聞いたとき、「K」に「精神的向上心のない者は馬鹿だ」と言っているね。この言葉、実は「先生」が以前に「K」から言われたものなんだよね。それをふたたび「K」に投げつけたのは、どこかに復讐の匂いがしないでもない。だがそれはさておき、そのとき「K」は 「先生」に「自分には覚悟がある」と答えている。それが何を指しているのかは、明らかでない。
B・その「覚悟」をたぶん「先生」は「K」が「お嬢さん」にプロポーズする「覚悟」と取ったので、これは大変とばかり先手を取ったのだろうね。
A・そう、そう考えれば、これは明らかに「K」が信じていた「先生」に裏切られたがための絶望と考えられる。だがね、その逆も考えられないか? つまりKの「覚悟」は 「お嬢さん」とはキッパリ縁を切って、これまでのように学問と思索の道に精進しようという覚悟だったとしたら、どうだろう。その場合、女性というものをかつて知らない純粋無垢な「K」に、「お嬢さん」がそう簡単に諦められるか?
B・そうか、色恋に免疫のない「K」が初めて体験した激しい恋なんだね。それが「先生」の先制攻撃に出会って、ますます燃えさかったとしても不思議ではないな。
A・これまで営々として築きあげてきた「K」の知性の殿堂は、恋の炎に焼かれ、音を立てて崩れ始めたんだ。いままで堕落の元凶として遠ざけ、軽蔑してきた女色に、まさか自分が嵌まるとは―。そう考えると、「K」は自分が許せず、自分をこの世から抹殺する以外、道はないと思ったのかも知れないね。
(6)「先生」はなぜ自殺を決意したか
B・なるほど、一般に自殺の動機なんちゅうのは、そう簡単には決めつけられないかもね。それで思いだしたんだが、芥川龍之介も自殺の前に『或旧友へ送る手記』を書いているが、その中で彼は「自殺者の心理をはっきり伝えたい」といいながら、「将来に対する唯ぼんやりした不安である」としか記していない。自殺者の心理なんて、実は本人にもそれほどハッキリしていないじゃあなかろうか。
A・そう、自分に判らないと来れば、次にはまして他人に判るかと来るはずだが、それじゃあ対談にならないから、それはさておき、とにかく続けるとしよう。ボク自身の考えを先に述べるとすれば、自殺の動機なんてぇのは、もろもろの原因のもたらす悩みが心のなかに渦巻き、膨張し、限界に達すると、ホンの些細なことでも引き金となって、向こう側の世界に飛び込むのだ。
B・まさにその通り。ではここで、そのもろもろの原因なるものを考えてみようじゃないか。なんてったって、第一に思い浮かぶのは、親友を裏切ったという罪の意識、これが「先生」の生涯の汚点として心に重くのしかかっていたというのは事実だろうね。遺書の最後にはこんな文章がある。「人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。」
A・うん。キミの言うように、それは先生を自殺に追いやったいちばん大きな原因かも知れないな。でも、ボクがさらに付け加えたいと思うのは、先生の夫婦関係だ。「先生」が自分の犯した罪を妻に打ち明けていれば、あれほど苦しまなくてもよかったと思う。「先生」もそのことは知っていて、「ありのままを妻に打ち明け、・・・懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉うれし涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いない」と書いているね。英語のことわざにも〈分かち合えば苦しみは半減する〉とあるが、それが出来なかった「先生」は、その苦しみを一生ひとりで味わう羽目になったのだよ。
B・そうだね、「先生」は秘密主義者で、「K」にも妻にも「私」にも何も打ち明けず、やっと「私」にだけ打ち明けたのは、死の直前の遺書のなかだったものね。自分の妻に打ち明けていれば、もっと彼女と一心同体になれただろうし、そうすれば、「先生」は死ななくてもよかったかも知れない―。
A・そう、「先生」だけでなく、「K」に対してだってそうだよ。「K」が「先生」に「お嬢さん」に対する切ない恋を打ち明けたとき、「先生」も「K」に「君もそうか、僕もお嬢さんが好きだ」と返していたらどうなっていただろう。その場で喧嘩になったか、それとも冷静に解決策を相談したか、それは判らないが、少なくとも「K」にとっては自殺以外の道だってあり得たと思う。
B・そうかも知れない。とにかくいろんな解釈が成りたつわけだ。ほかに思いつくことは何かないかな?
A・もう一つ、「先生」の自殺の原因としては、淋しがり屋という性格があるんではなかろうか。「先生」は人一倍感受性が強く、それだけにKの自殺以来、いっそう独りで閉じこもるようになっている。そのことは、「私」が「先生」と知り合いになったころ、「私は淋さびしい人間です」という言葉を繰りかえし言っていることからも判る。
B・そうそう、「遺書」の最後のほうに、こんな文章があったのを思いだしたよ。「K」は「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決(註=覚悟を決めること)したのではなかろうかと疑い出しました。そして私(註=先生)もKの歩いた路を、Kと同じように辿っている」と。これを見ると、「先生」はキミのいうように、淋しさに耐えられず自殺したとも考えられるね。
A・まったくだ。「先生」の一生が、この淋しさに貫かれているのは事実だ。だって、気の許せる唯一の友「K」にも死なれるし、秘密を隠している「妻」にも「私」にも打ち解けられないし、まったくの天涯孤独だ。ただ注意すべきは、この淋しさは何も「先生」ひとりのものではないということだ。『こころ』のなかには「淋し(い・さ)」という言葉が二十九回使われているが、その使われた相手は「先生」だけでなく「私」、「K」、「両親」にも及んでいる。みんな淋しいんだ。その一つを含んだ文章に、こういうのがある。「自由と独立と己れ(註=自我)とに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」と。つまり「先生」は、Kの死後感じていた自分の淋しさを、明治という時代の病弊に一般化しているのだ。〈自由〉と〈独立〉と〈自我〉という西洋文化を手に入れた代わりに、かつての共同体社会の持っていた連帯感を失い、個人がバラバラになったことから生まれる〈孤立感〉、すなわち〈淋しさ〉を誰もが感じるようになったというんだ。
B・ちょっと、ちょっと。それって、ずるくないか。自分の感じている淋しさを時代のせいにするなんて―。
A・いや、いや、そうじゃぁないんだ。「先生」はもちろん、「K」も「私」もみんな時代の中に生まれ、時代の影響を受けて育っているといっているのだ。明治の近代化が人びとの孤独感を招くと考える漱石は、さっきも言ったように、その思いを「先生」だけでなく、「先生」と関係する人たちにも託している。だからみんな淋しいんだ。考えてみれば、「私」が「先生」を師と仰いだのも、「K」が一切の経緯を秘したまま自殺したのも、淋しさのためだといえるだろう。時代のメリットもデメリットもすべて受け継いでいる「先生」は、明治が終わったとき、「最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだ」と感じたんだ。そして、時代とともに消え去ろうと思い悩むのだが、なかなかその決心がつかないままにいるとき乃木大将の殉死を知り、それが芥川龍之介のいうスプリング・ボードとなって、自殺を決意したということだと思う。
B・いや、ありがとう。よく判ったよ。でも、まだこれで十分というわけではないので、いつか機会があったらまた話し合うことにして、今回はこのぐらいにしておこう。
(平成二十五年九月)