旭丘高校最後の授業での挨拶

                           平成2年2月14日・15日

 君達が入学したとき、私も旭丘へ転勤してきた。君たちと同じに、この三月で私もこの学校を定年退職することになる。

 今日が私が君たち3年生に教える最後の授業になる。

 ただ、公立高校は定年退職するけれど、教師を辞めるわけではない。4月からは、ある私立短大で英語を教えることになっている。それが5年になるか、10年になるかは、わからない。いずれにしても当分は教師という職を続けることになる。

 さて、ここで君たちに言っておきたいことがある。それは自由とか、自主性とか言うことは、一体どういうことかということである。旭丘の生徒は、本当に自由で、のびのびとしている。そして全てのことを自分たちで決め、自分たちで実行している。そのこと自体は、すばらしいことである。

 例えば、学校祭においては、6日間という長い期間を、教師の力を借りることなく、自分たちの手で計画し、自分たちの力だけで実行しようとする。普通の学校ではとても真似の出来る芸当ではない。

 最近もこんなことがあった。校舎の内外が非常に汚いので、何とかもっと奇麗にならないかと、学校側は清掃の担当をを生徒会の所属から離し、保健部に運営を任せたらどうかという案を出した。生徒会の諸君はそれを自治権の侵害と受け取ったらしく、反対の意見表明をした。学校側の真意を誤解したということはあったけれど、少しでも自主性を阻害されると判断したときは、すぐに反応を起こすのが旭丘の生徒の伝統であると言えよう。

だがここで君たちに考えてもらいたいことがある。それは自主性とは何かということである。旭丘の生徒は口を開けば自主性という。そして生徒の自主性に任せよという。われわれ教師も出来るだけそうしたいと思う。

 だがここで問題がある。それは君たちの自主性は決して完全なものではないということである。辞書の定義によれば、自主性とは他の誰にも頼らず、他人の意見に左右されず、自分の力だけで正しい判断が出来、正しい行動が出来るということである。このことは、実は大変なことである。例えば今の世の中何が正しいかを見極めるだけでも至難の業である。ましてや正しい行動をするなんてことは並の人間に出来ることではない。

 だから、君たちの自主性に任せると言っても、自ずと限界がある。我々教師のやるべきことは、不十分な生徒の自主性に任せて、教師側が手を抜くということではなくて、どうしたら生徒の自主性を育てることが出来るかということなのである。そのためには、ある場合には生徒を強く指導しなければならないし、またある時は突き放して生徒だけに任せることも必要なのである。

 人間には自信が必要である。プライドを持つことも必要である。しかし、己を過信し、傲慢になってはいけない。何人かの人は、浪人することになろう。それが良薬になって、次の飛躍につながる人もいる。自信喪失して、生きる意欲や向上する努力を失わないでほしい。私も残された人生を精いっぱい生きるつもりである。君たちの健闘を祈る。


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