昭和高1学期終業式指導部主任訓話      昭和53年 7月20日

自律的な生活態度を

 夏休みを前にして、今日は諸君にとって一番大切と思われること、すなわち自律的な生活態度ということについてお話ししたいと思います。

 論語の為政篇のなかに、こういう言葉があります。「子曰く我十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従って矩を超えず」というのです。問題はこの最後の言葉です。

 「心の欲する所に従って矩を超えず」というのは、分かり易くいえば、自分の好きなことをしても、度を過ぎることも、他人の迷惑になることもなく、中庸を得て、人の道に叶った振る舞いになっているということです。これは、凡人のできる業ではありません。まさに、聖人君子の域に達した人の行動であります。自律的に生活態度の極致だといえると思います。

 人間の成長していく過程を行動の面から考えると、このような「自律的」な生活態度を確立していく過程だといえます。例えば、幼児は授乳・用便・睡眠・はいはいなど、すべてを母親に依存し、その行動は100%「他律的」なものであります。それが、母親にくり返ししつけられにしたがって、用便などいわれなくても自分でできるようになる。このように、いわれなくても自分でできるようになるということが、自律的になったということであります。このように、子どもは他律的な躾を通して、次第にに自律的な行動を身につけていくものなのです。

 自律的ということは他律的ということと正反対の概念ですから、他律的に強制すると自律性は養われないと考える人がいますが、それは間違っていると思います。戦後の教育は自発性の尊重が叫ばれました。そのこと自体は大切なことですが、それが日本社会の「甘えの構造」の中に持ち込まれ、躾とか訓練とかがあまりにもなおざりにされました。最近はその反省から、躾の意味が見直されていますが、それでも外国に比べると、子どもは甘やかされすぎるといわれています。

 さて、それでは他律的な生活態度はどのようにして自律的な生活態度に変わるのでしょうか。他律は他律であって、自立ではありません。ですから、他律的な指導をいつまでも続けていても、それだけで自律的な態度に変わることはありません。他律が自律になるためには、今まで母親のやってきた役割を自分で果たさせるように子どもに仕向けるということがなければなりません。他律から自律への過程が成長のメカニズムなのです。

 ところで、人間には反抗期というものがあります。この反抗期は、他律から自律への過渡的現象であります。それまで自分の上から覆いかぶさっていた外的な力をはねのけ、その力に代わって自分の意志で物事を行おうとする行動の特徴が、反抗期と呼ばれるものです。反抗期を経過することによって、人間は自律的態度を獲得し、成長していくものであります。

 赤ん坊が歩き始めるとき、はじめは母親の手を取って歩きます。そのうちに母親がいつまでも手を取っていると、それを振り払って自分で歩こうとします。そして転びます。子どもは転んでも、自分独りで歩きたがります。転ぶから危ないといって一人歩きさせないと、子どもはいつまでも歩くことを覚えることができません。

 ここで、話を本題に戻し、夏休みの意義ということについてお話しします。もはや多言を要しないと思いますが、夏休みというものは、今まで学校から与えられていた他律的な学習プランに代わって、自分で計画を立て自分でその計画に従って実行するという、いわば独り立ちの習慣を獲得するための経験の場であります。諸君が自律性を身につけ、飛躍的成長を遂げる過渡期であります。

 しかし、夏休みは大きく成長する場でもあるし、同時に一つ間違えば成長どころか大きく堕落する場でもあります。夏休みの自由は「両刃の剣」のごときものであって、役にも立つし害にもなる。この夏休みをいかに過ごすかによって。諸君の二学期は大いに変わることになると思います。自堕落に送った人は、二学期の厳しさに堪えられず、落ちこぼれることになるかもしれません。己を律することのできた人は、実り多い九月を約束されることでしょう。

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