昭和高2年生集会指導部主任訓話  昭和53年 4月14日

厳しさに堪える力を

 去年のオリエンテーションでお話したと思いますが、世の中に交通規則というものがあります。これは、多くの規則の中でももっとも重大なもので、これを守らなければ人の命にかかわるというほどの、犯すベからざる規則であります。これに比べれば、学校の規則は破ったからといってだれも死ぬわけではないので、いとも軽い気持ちで破られてしまいます。

 しかし、規則というものは何のためにあるのかということを考えて欲しいと思います。規則は、ある目的を達成するためにつくられているのです。例えば交通規則は、車や人がある地点から他の地点まで、もっとも早くかつもっとも安全に到達するという目的を保証するためにあるのです。だれかが交通信号を無視すれば、たちまち事故が起こって交通は混乱し、渋滞するし、最悪の場合は死者さえ出ます。学校生活の規則も、ただ人間が死なないという違いはあるとしても、実はこれと同じであります。つまり、規則を無視するものがあれば、みんなが学校生活を支障なく送るという目的は達成できなくなるのです。

 例えば、掃除をサボるものがいるとすると、その班の真面目にやっているものは明らかに被害をこうむる。おれもサボろうとみながサボり始めると、たちまち被害はクラス全体に及ぶ。

 「掃除をサボるのが、ほかのものの迷惑になるのはわかった。しかし服装は違う。服装は自分一人の問題で、だれの迷惑をかけるだけでもない」とういう人がいるかもしれない。だが、甚だしい認識不足である。

 例えば、だれかがパーマをかける。人間だれでも格好よくなりたいから、真似をするものが現れる。流行に弱いのは、若者の常である。みながパーマをかけ出したら、それまで服装に無関心であったものも他人の動静が気になりだし、落ち着いて勉強に集中できなくなる。服装は自分ひとりの問題ではなく、学校全体の問題です。

 ところで、先日一年生に昭和高校の印象について尋ねたところ、7〜8割のものが「きれいな学校だ」と答えました。正直、私どもは驚いたけれども、これは先輩である諸君たちの努力のたまものだと嬉しかった。

 それにしても、後輩たちは先輩のことをよく見ている。彼らはいま全神経を集中して、1日も早くこの学校に溶け込もうとしている。昭和高校生になりたいと願っている。私は先日、一年生に対しては先輩の悪い点は見習うなといいました。いまここで私が君たちにたい、それは後輩の手本になれということです。

 さて、次は諸君に、「もっとたくましくなれ」と言いたいと思います。去年の暮れ、私は同僚の先生方と赤倉へスキーに行きました。そこで、私は思いがけず事故にあって、左肩胛骨に肉離れを起こしました。地元の診療所で手当を受け、1時間ほど休んでいました。驚いたことはその1時間ほどの間に、小中学生が3人も怪我などで運び込まれてきたことでした。そのとき、付き添いの先生の1人が言うには、最近の子供たちはすぐに骨折をするのだそうです。先生はさらに、原因は骨そのものが脆いというより、骨を支え筋肉が弱いからといいました。「身体の鍛え方が足らない教育にも責任があるでしょう」と締めくくりました。

 その通りだと思います。戦後の教育は体罰の禁止の精神が肉体の鍛錬にも影響を与え、なるべく怪我をしないよう、無理をしないようにという配慮が行き過ぎ、教師側にも厳しさの不足があるのかもしれません。また、社会一般にも過保護と甘やかしの風潮がみなぎり、若者は少しの困難や障碍に出会うと、すぐ挫折しがちです。障碍と戦い、克服しようとする勇気やねばり強さが見られない。勉強面では、すぐに吸収できるように分かり易く教え、体力や精神面では、なるべくいじけずにすくすくと育つようにと、障碍や困難を取り除いてきました。それはそれなりに、よい成果をもたらしたのは事実ですが、一面では困難を自力で克服しながら成長していくという、人間にとって大切な機会を奪うことにならないかと思います。

 そのことは、最近の登校拒否の増加にも現れているのではないでしょうか。昔の母親は子供が転んでもすぐには起こさなかった。しかし、最近の甘い母親は子供が転ぶとすぐに飛んできて起こす。そのうえ、転んだ原因の石ころや柱を叩いたりして、「いい子ね、悪いのはこの石ね」といったりする。自分の不注意で転んだと知れば、子どもは二度と転ぶまいと思って注意するが、悪いのが石であると教われば、成長の努力は停止するばかりか、非を相手のせいにする態度を身につける。

 登校拒否のもう一つの原因として、父親の権威喪失ということがよく言われます。今世紀のはじめ、すでにフロイトの弟子は「父なき社会」という本を書き、現代社会の特徴が父親の子どもに対する影響の弱まったことにあるとしている。昔は「父よあなたは強かった」と歌にもうたわれた。現代の社会的風潮は、父親の権威を否定する方向に動いてます。父親は子どもの手本ではなくなりました。

 京大の会田雄二教授は、敵が襲ってきた場合、日本の母親は子どもを胸に抱きしめ、外敵に背を向けてうずくまるといっています。一方、外国の母親は子どもを腕に抱くけれども、後ろを向くのではなく、正面を向いて外敵に立ち向かうという。日本の母親は「焼け野のキギス」のように、自分を犠牲にしても子どもを保護しようとするのです。子どもは母の腕に抱かれると、親鳥に抱えられた雛のように安心感を覚えます。学校で少し嫌なことがあると、母親の待っている家庭にもぐり込み、登校拒否を起こすのです。

 このように、現代の子供達は甘やかされて育っているけれども、彼らにとって唯一の困難は入学試験であります。試験地獄という言葉があるように、たしかに入試は大きな問題を抱えています。しかし、入学試験があればこそ、まだ子どもたちは根性を鍛えられる機会があるのではないでしょうか。それがなかったら、子どもはさらに甘やかされることになります。

 ただ、問題は困難が勉強面のみにおかれ、生活面での躾におかれていないということであります。躾の面で甘くて「過保護」な母親は、勉強の面では口やかましく「過干渉」になる。それが反対なら、私は子どもの成長がもっと正常になると思います。

 つまり、勉強の面で頑張る根性は、勉強以外の面での頑張りとまったく同じであるということに気づかない母親が多いのではないでしょうか。

 こう言ったからといって、私は決して諸君のお母さん方を非難しているわけではありません。そうではなくて、私は諸君らに、諸君がいかに過保護な状況の中におかれているかということをハッキリと認識してもらいたいのです。現状を打破する勇気は、まず自分のおかれている現状知ることから始まるのではないでしょうか。

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