昭和高3学期終業式指導部主任訓話        昭和53年 3月20日

この一年を振り返って

 この一年間、生活指導部の仕事をしてきて感じたことを一つお話ししておきます。喫煙事件をはじめとしていくつかの問題行動がありました。

 問題行動を起こした生徒諸君を見て思うことは、知っているということと行うということとの間には、大きなギャップがあるということであります。英語のコトワザでいえば、「知ることと行うことは別のこと」なのです。悪いということはみんな知っている。知っているのにそれを行うのです。知らずにやったというものは1人もいませんでした。

 ではなぜ、人間は悪いと知りながらそれを行うのか。一つには、知ってはいるが知り方が不十分だ、ということもあるでしょう。酒やタバコは法律的には禁じられているが、大して悪いことではないだろうと思うのは、認識の甘さであって、本当に悪いと知っているのではないといえます。また、群集心理もあります。みながやっているから、自分がやっても許されるであろう。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」の心理です。

 しかし、最大の理由と私が思うのは、自制心の欠如です。間違ったことを行わないという、自己をコントロールする力が不足していると思います。

 正しいことを行い、正しくないことを行わないというのは、一見すると簡単なように思えますが、実はなかなか難しいことなのです。しかし自分をコントロールする力の付いている人にとっては、簡単なことなのです。

 それは、飲酒や喫煙などの問題行動だけではなく、日常生活全般についてもいえることです。遅刻とか、清掃とか、服装とかの規則をきちんと守れるということは、基本的生活習慣ができていることであり、それができている人は、しなければならないことをし、してはならないことはしないのです。

 では、基本的生活習慣とは、何でしょうか。諸君の中には、指導部は遅刻とか清掃とかをやかましく言い過ぎる、と感じる人がいると思います。極端な人は、「学校は、勉強だけを教え、後はすべて生徒の自由に任せよ」といいます。さすが、このような人は少数ですが、「規則を守らせるのは、生徒の自覚に待つべきである」とか「自主性に任せるべきである」という考えの人は多いと思いあます。

 こういう人は、「われわれは子供ではないのだから、子供扱いはしないで欲しい」と言いたいのだと思います。しかし、ちょっと待ってもらいたい。なるほど、「スカートを短くしろ」とか「遅刻するな」とか「掃除をさぼるな」とかいうことは、小中学生にいう言葉かもしれません。だが、問題は、そのようなことを言わなければならない生徒がいるというのが現実だ、ということです。

 先日、われわれはこの体育館で、1人の卒業生代表から素晴らしい答辞を聞きました。彼はこういいました。「君たちはあれこれ強制さえたり命令されたりすることは嫌いだというけれど、強制したり命令したりする必要のないときに、そうする人間は1人もいない」と。

 基本的生活習慣というのは、人間が社会生活や集団生活を営むうえで、どうしても身につけていなければならない生き方の態度です。これを喩えていって見れば、人間の知識に「基礎学力」があるように、人間の行動習慣にも基本となるものがなければならないという考え方です。

 先ほどの卒業生代表の言葉を私たち教師の言葉に翻訳すれば、こういうことになるのです。つまり、中学校ですでに身につけていなければならないはずの生活習慣が、高等学校の今の段階でまだ出来上がっていないとすれば、われわれは引き続いてその習慣が身につくまで面倒を見なければならないということであります。すなわち、基本的な生活習慣が確立されていないまま、諸君を卒業させるあけにはいかないのです。それが教師の義務なのです。

 指導部がこの二学期からやってきた月3回以上の遅刻者に対する8時出校の指導も、同じ意味を持っています。8時出校というのは、月に遅刻を3回以上したことに対する処罰ではないのです。処罰であれば、3日なり、1週間なりの期限があるのですが、この指導にはそのような期限はありません。諸君の早起きの習慣が付いたと判断できるまで、出校してもらいます。それは、この措置が処罰ではなく、教育的指導だからです。

 さて、自律性という、自分で自分の行動をコントロールする能力は、生まれながらにして備わっている人は1人もいません。それは、学校や家庭という教育の場で、もっと広くいえば、地域やそれを取り巻く社会環境の中で、次第に形成されていくものであります。とくに学校という集団生活の場は、大きな意味を持っています。われわれがくどいほど、服装や遅刻のことを注意するのは、諸君がいずれ社会に出て自立するときに、立派な社会生活をするに足る態度や習慣が身についているという状態をつくり出したいからにほかなりません。

 明日から、春休みが始まります。自分だけの力でどれだけ自分の生活を規制できるか、春休みはそれを試す実験の場であると考えて過ごして欲しいと思います。

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