6.個人主義の英米人、集団主義の日本人 安藤 邦男
(1) 責任の取り方の違い
《みんなの仕事はだれの仕事でもない》vs「一蓮托生(いちれんたくしょう)」
@ 「責任は個人で」という自由主義社会英米
・ Everybody's business is nobody's business.《みんなの仕事はだれの仕事でもない》
欧米式の自由主義社会では、たいていのことは個人の自由に任されますが、同時に自由に行ったことはすべてがその人の責任にされます。日本人の場合は、みんなで決められたことを行ったからにはみんなで責任をもつという考え方になるのですが、このような共同責任の考え方は欧米では無責任と見なされるのです。
例えば、こういう話があります。ある人がアメリカにいたとき、配達された靴のサイズが違っていたので、その靴店へ取り替えに行きました。別の靴と取り替えてくれたことはいいのですが、そのとき店員に苦情を言ったところ、「配達係が他人の靴と間違えて配達したから、悪いのは配達係だ。自分に苦情を言われる筋はない」といったそうです。日本なら、たとえその本人に責任がないとしても、同僚などの過失は共同責任として謝罪します。アメリカ人にはそういうところがないようです。
同じ実例が、筆者安藤にもあります。ずいぶん昔、はじめてイギリスへ行ったときのことですが、あるホテルのバスのドアが壊れていて、よく閉まらない。よく見るとドアの上に張り紙がありました。読むと、「このドアは施工会社○○が取り付けた。最初からよく閉まらない。悪いのは施工会社である」とありました。日本では考えられないことです。そんな施工会社に工事を委託したホテルの責任はどうなるかと、そのときつくづく考えたことを覚えています。
A 「責任は全体で」という全体主義社会日本
責任は個人で負うものという英米式考え方に対して、仲間の過失は自分の過失だという日本人の考え方を代表することわざがあります。
・ 「一蓮托生」(いちれんたくしょう)
これは、ある行動の結果がよくても悪くても、行動や運命をともにしよう、という意味で使われます。
戦後、民主化されたとはいえ、日本人の文化あるいはそれに基づく生活態度はいまだに全体主義的、集団主義的色彩を濃厚にとどめています。例えば、日常生活などでも、自分個人のことを考えるよりまず家族のことを考える。そして、ひとむかし前であったらまず村のこと、今日ではまず会社のことというように、自分を取り巻く周囲のことを考える傾向が強いのです。周りの家族や、友人、隣人、会社の上司や同僚などがあってこそ、自分の存在があるというように考えるのです。
このように、集団依存の傾向の強い日本人は、社会の中でとかく派閥をつくりたがります。むかしは婚姻で一族の勢力を伸ばすことがよく行われていましたが、今日の社会でも、地縁、血縁による集団が多く存在します。政治の世界では派閥があるし、一般社会では学閥や財閥などがあります。世の中は派閥の力学で動いているようです。
このような派閥は、日本社会の近代化や国際化を阻むむガンであるとする批判もあります。以前駐日大使のライシャワー氏は、次のように言いました。「諸国民の中で日本人ほど『われら日本人』と『外国人』との間を、はっきり線引きしている存在は、ほかにはなさそうです。日本人のもつ集団意識は、どうやら他国民よりはつよく、それだけに『他者とは異なる』という感覚も強烈なように思われる。」
最近では、小泉首相が政治改革の一端として派閥解消をとなえました。しかし、自民党内の保守派から反発があるので、成功するかどうかはきわめておぼつかないと思われます。
(2) 日本語の全体主義的傾向
日本人の全体主義的・集団主義的性格は、日本語の発想や物の考え方にも表れています。
例えば、日本語に「象は鼻が長い」という表現があります。日本語はまず「象」という全体から入り、次に部分へと話題をつないでいくのです。「象」という主語から「鼻」という副主語へ移り、最後に述語がくるのです。
また、石川啄木の短歌に、「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」というのがあります。これは、「の」というつなぎ言葉を用いて、大きな全体から次第に小さな個体へと移っていきます。これが日本語の特徴的な配列の仕方だと言えます。
このことは、日本人の発想の仕方、ものの考え方全体に通じることです。例えば、「住所の表記」では、愛知県名古屋市××区○○番地と書いていきます。「姓名」も同じで、家族名が始めに来て、本人の名が後ろに続きます。ところが、欧米は逆で、まず番地から初め町名、州名となる。名前も同じで、欧米式は名前が最初で、家族名が最後にきます。比較してみると、日本人の全体を尊重する発想の仕方がよく判ります。
(3) 因果応報の日英ことわざ
@ 自業自得を説く英米のことわざ
《すべて剣を取るものは剣にて滅ぶ》(聖書)vs「親の因果が子に報い」
因果応報を説くことわざは、英米にも日本にも多くあります。しかしそこには明かな国民性の違いが見られます。
英米の因果応報を説くことわざは、善い行いや悪い行いにはそれぞれ現世で報いが表れるというものが多くあります。日本のことわざのように来世ではなく、現世でというところに、大きな特徴があります。自由社会では何をしてもよいし、何をいっても許されるが、しかしその結果に対しては責任を持たねばならない、という英米の個人主義思想が、ことわざにも表れています。行為の結果は自己責任である、いうなれば「自業自得」である、という考え方です。
次のことわざはいずれも、そのような因果応報のことわざですが、注意すべきは、よい行いに対してよい報いがあるとすることわざよりも、悪い行いに対して悪い報いがあるとするものが圧倒的に多いということです。
・ He that sows virtue, reaps fame.《徳の種を蒔くものは名声の収穫を得る》
・ Good seed makes a good crop.《よき種はよき作物をつくる
・ Who spits against heaven, it falls in his face.《天に向かって唾する者は顔に唾を受ける》
・ Harm set, harm get.《災いを仕掛けるものは災いに遭う》
・ Shame take him that shame thinks.《他人に恥をかかせようとするものは恥をかくがいい》
・ He that hurts another hurts himself.《他人を傷つけるものは己を傷つけることになる》
・ With what measures ye mete, it shall be measured to you again.[Matthew7-2]《他人に与える処罰は自分にも与えられるであろう》[聖書:マタイ伝7−2]
・ The biter is sometimes bit.《だますものはときにだまされる》
・ Curses return upon the heads of those that curse.《呪いは呪うものの頭上にもどってくる》
・ All they that take the sword shall perish with the sword. [Bible:Matthew26-52]《すべて剣を取るものは剣にて滅ぶ》[聖書:マタイ伝26−52]
・ He that sows thistles shall reap prickles.《アザミを蒔く者は刺を収穫することになる》
・ The arrow shot upright falls on the shooter's head.《真上に向けて射た矢は射手の頭に突き刺さる》
・ Sow the wind and reap the whirlwind.《風を蒔かばつむじ風を刈り取る》
A 輪廻転生を説く日本のことわざ
自業自得(自己責任)を説く英米のことわざに対して、日本のことわざは輪廻転生を説きます。
すなわち、日本のことわざは善い(または悪い)行いに対して、現世で善い(または悪い)報いがあるとするものは少なくて、「親の因果が子に報い」のように、多くは来世にそれぞれの報いがあるとするものが多くあります。仏教の影響から、輪廻転生(りんねてんしょう)の思想が行き渡っているからでしょう。この世では苦労しても、徳を積めば来世では極楽へ行くことができて幸福になる、あるいは子孫が幸せになる、という考え方です。反対に悪徳を積めば、自分も地獄へ堕ちるし、子孫も悪い影響を受けるというのです。次のようなことわざが多くあります。
「親の因果が子に報い」
「親の罰は子にあたる」
「今生(こんじょう)飾れば後生(ごしょう)飾る」(現世でいい行いをすれば死語来世でよい報いを受ける)
「積善の家に余慶あり」(徳を積めば子孫によい報いがある)
「情けは人のためならず」
「恨みに報ゆるに徳を以てす」
(4) 子供のしつけと教育
Spare the rod and spoil the child.《ムチを惜しめば子供はだめになる》vs「這えば立て、立てば歩めの親心」
@ 子供にきびしい英米
英米は一般に、子供に対しては厳しいしつけを行うようです。例えば、地下鉄やレストランなど公共の施設では、絶対子供を騒がせたり、わがままを言わせたりしない。騒いだり、わがままを言えば、第一親が叱りますし、他人の親も黙ってはいません。
子供は厳しくしつけるものだという、共通認識があります。むろん、欧米では現在、体罰は公的には禁止されています。が、家庭教育では体罰を含む厳しいしつけが行われているようです。
・ Spare the rod and spoil the child.《ムチを惜しめば子供はだめになる》
ところで、このことわざには、相当する日本のことわざとして、「可愛い子には旅させよ」を従来当てていました。しかし、旅が快適になり過ぎてしまった今日では、この日本語ことわざが従来もっていた《苦労させよ》という意味が失われつつありますので、このことわざを当てるのは問題だと思います。
それはともかく、英米では、子供は8時すぎると、たいていは寝室へ追いやられるものです。あとは夫婦の時間、大人の時間です。子供と大人の区別はハッキリさせるのが英米の文化であり、大人の話には子供は入れてもらえないのです。だから、次のようなことわざがあります。
・ Children should be seen and not heard.《子供は見てやるだけでよい、話しを聞いてやってはいけない》
A 子供に甘い日本
それに対して、日本には次のようなことわざがあります。
・ 「這えば立て、立てば歩めの親心」
・ 「子供叱るな来た道じゃ、老人笑うな行く道じゃ」
ここには、子供を大切にするというより、甘やかすといった方がよいという、従来の日本式子育ての考え方がまことによく表れています。ちなみに「子供叱るな・・・」は、永六輔さんが犬山のお寺かどこかに書いてあるのを採集し、紹介したものです。いまでは岩波のことわざ辞典にも載っています。
前に、英米では子供が地下鉄などで騒げば、他人の大人でも黙っていないと書きましたが、日本ではその逆で、子供が騒いでも親は知らぬ顔、他人が見かねて注意しようものなら、逆にくってかかるぐらいです。
体罰についても日本では騒ぎすぎます。子供が学校で少しでもきつく叱られると文句を言うし、叩かれでもしたら大変です。わが子可愛さの表れでしょうか、次のようなことわざがあります。
・ 「親の打つ拳より他人のさするが痛い」
これは、親の打つ手には情がこもっているが、他人の手には情がないので、たとえさすってくれても痛く感じる、という意味です。
日本では、親はあまりに子供を大事にしすぎ、その結果、手に負えない子供ができすぎているのではないでしょうか。体罰は法律的に禁止されていますが、いま日本ではあまりに杓子定規に考えすぎると思います。最近の高校野球でも、体罰事件が大きく報道されましたが、少々騒ぎすぎではないでしょうか。
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