4.一神教の英米人、多神教の日本人          安藤 邦男

(1) 自分の神以外を否定する一神教の欧米人
    《目には目を、歯には歯を》(旧約聖書)

 英米人の正義感の強さには定評があります。正義感の強さは、それを犯したものへの報復の激しさという形で表れます。なぜなら、報復は悪に対する正義の鉄槌だからです。そこで、聖書にある有名な見出しのことわざのように、悪への報復の論理が意味をもってくるのです。悪は、許してなりません。許せば、悪人は再び悪を犯し、善人を苦しめるからです。次のように、報復を勧めることわざが多くあります。

An eye for an eye, and a tooth for a tooth.《目には目を、歯には歯を》(旧約聖書)
The first faults are theirs that commit them, the second theirs that permit them.《一回目の罪はそれを犯した者のもの、二回目はそれを許した者のもの》
Pardoning the bad is injuring the good.《悪人を許すことは善人を害するに等しい》
・ Put your trust in God, but keep your powder dry.《神を信じてもよいが火薬を湿らせてはいけない》
・ God (or Providence) is always on the side of the big battalions.《神はつねに大軍に味方する》
Turn about is a fairplay.《仕返しはフェアプレー》
Revenge is a dish that can be eaten cold.《復讐は冷ましてから食べると一番美味しい料理》 (復讐というものはすぐ実行するよりも、時間をかけてゆっくりした方が効果的)
Revenge is sweet.《復讐は甘美である》


 とくに、最後の二つのことわざは、正義のためというよりは復讐そのものが自己目的となり、少々不気味さを感じます。

 一神教の民族にとって、自分の神以外はすべて邪教ですから、悪として、敵として退けるのです。自分の神が唯一絶対ですから、それを否定するものには果敢に戦いを挑みます。一神教に宗教戦争が付き物である理由は、そこにあります。

 神は自分の親よりも大切であるし、なによりも恐ろしい存在なのです。次のことわざがそれを語っています。

Religion is the rule of life.《宗教は人生の規範である》
One may live without father or mother, but one cannot live without God.《人は両親が無くとも生きられるが、神無くしては生きられない》
A guilty conscience feels continual fear.《罪を意識する心は絶えず恐れを抱く》

 もっとも、キリストは後に、旧約聖書のなかの
「目には目を、歯には歯を」に言及し、次のようにいいました。

・ You have heard that it hath been said, "An eye for an eye, and a tooth for a tooth": But I say unto you, that you resist not evil: but whosoever shall smite thee on thy right cheek, turn to him the other also.[St.Mathew 5-38,39]
《「目には目を、歯には歯を」と言えることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、悪しきものに手向かうな。人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ》(マタイ伝、5−38,39)

 これは、徹底的な無抵抗主義であります。あまりに高尚すぎる理想ですから、敬虔なキリスト教徒でもなかなか守るのが難しいようです。

(2) 神も仏も受け入れる多神教の日本人
    「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」(親鸞「歎異抄」)

 では、日本人はどうでしょうか。日本人は無宗教だという外国人がいます。一神教の外国人の目から見ると、一見、日本人はあらゆる宗教を無差別に受け入れ、一貫性がありません。新年や結婚式は神道で祝い、葬式やお盆は仏式で行う、クリスマスやバレンタインはキリスト教の儀式を真似する。まったく一貫性がない、一つの宗教を信じている者の取るべき態度ではない、と一神教の外国人は思うのです。

 一神教の場合、キリスト教を信じれば、ほかの宗教は異教として排斥し、信じない。イスラム教を信じれば、それ以外の宗教は邪教であり、唾棄すべきものである。彼らの言葉を借りれば、一つの神を強く信じれば他の神を信じることはできないはずだといいます。どんな神も信じるということは、どんな神も信じないと同じだと彼らはいいます。

 しかし、多神教の日本人にとって見れば、神や仏はあらゆる所におわすのです。家の中を見回すだけでそのことは知れます。神棚と仏壇が同じ家の中で仲良く同居しています。それだけでなく、台所にも風呂場にもトイレにも、すべての所に神様や仏様はおられるのです。それ故、あらゆる所を清め、崇めるのです。とくに祖先への崇拝は強く、お盆には霊を迎えて供養し、春秋の彼岸にはお墓参りを欠かさない。祖先崇拝にかけては、一神教に劣るどころかそれ以上です。

 比喩的に言えば、悪いことをすれば神が許さないから、悪いことをしてはいけない、というのが一神教の教えだとしましょう。仏教の場合はどうかといえば、それとは逆に、悪いことをしても許してくれる神様に申し訳ないから、悪いことをしてはいけない、というのがその教えだと言えます。そのことは、次の親鸞の言葉が如実に語っています。

「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」(親鸞「歎異抄」)

 このように、日本人の宗教観は一神教ほどの激しさはありませんが、しかしすべてを受け入れる寛容さでは一神教にまさります。日本人にとって、それぞれの神とか仏とかは、ちょうどそれぞれの人間の親と同じようなものです。自分の親が大事であるように、他人の親もその人にとっては大事な親であるから、尊重しなければならない、というのが日本人の宗教観です。

(3) 一神教と一神教の衝突
    サミュエル・ハンチントンの予言

 Samuel Huntington《サミュエル・ハンティングトン》は今から10年ほど前に「文明の衝突」(The Clash of Civilizations 1996 翻訳は集英社1998年)を書き、その中で、ソ連崩壊後、イデオロギーの終焉を見た世界は、新しくキリスト教文明とイスラム文明とが衝突すると予言しました。その予言は10年後の今日、現実のものになりつつあります。

 ついでながら、彼は日本文明を高く評価し、八大文明圏(西欧文明、儒教文明、日本文明、イスラム文明、ヒンズー文明、スラブ文明、ラテン・アメリカ文明、アフリカ文明)のうちの一つとして日本文明を位置づけていることです。それはそれでよいことですが、やや気になるのは、アメリカと中国の2大文明のうち、日本はいずれ中国文明に組みするのではないかと予測していることです。

 それはさておき、少し過去をふり返ってみれば、一神教が起こす戦争の多さは驚くほどです。

 11世紀末から13世紀後半に至るまでの200年間に7回にわたって行なわれた十字軍の戦争も、神の名においてなされた戦争です。現代のユーゴの紛争もインドとパキスタンの争いもイラン・イラク戦争もみな然りです。ブッシュのアメリカとフセインのイラクの戦争、アフガン戦争なども元を正せば、すべて宗教が紛争の種になっています。

 そればかりではありません。アフリカをはじめ、南北アメリカ、アジアなどでの植民地争奪戦争の残虐さ、それらがしばしばキリスト教の名においてなされたのは、歴史的事実です。教会はしばしば侵略者たちの手先となり、先住民の略奪にも参加しました。

 博愛を掲げるキリスト教がそんな非人間的なことをするはずはないと思うかも知れませんが、植民地争奪の戦争は正義の旗印の下に行われ、宗教と教会はそのために利用されたのでした。宗教の歴史を見れば、決して宗教が平和をもたらすものだとは限らないのは、歴史を見れば明白です。というより、過去の戦争のほとんどが、宗教が火種になって起こった戦争だといっても、過言ではありません。


 人間の魂を救うはずの宗教が、皮肉なことにかえって多くの人々の血を流させる。それは、一神教には生まれながらにして他を排除する思想があるからです。

・ Put your trust in God, but keep your powder dry.《神を信じてもよいが火薬を湿らせてはいけない》
・ God (or Providence) is always on the side of the big battalions.《神はつねに大軍に味方する》
・ A just war is better than an unjust peace.《不正の平和より正しい戦争の方がまし》


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