3.行動型の英米人、慎重型の日本人            安藤 邦男

(1) 日英の行動様式の違いを象徴的に示すことわざ

 行動型の英米人と慎重型の日本人という、二つの行動様式の違いを象徴的に表すことわざがあります。それは、同じ内容のことを、別の表現で述べた次のようなことわざです。

 
・ 英=《己の欲する所を人に施せ》(聖書)
 ・ 日=「己の欲せざる所を人に施す勿れ」(論語)


@ 英米人の考え方


・ Do unto others as you would have others do unto you.[Bible:Matthew7-12]「自分のして欲しいように人にもせよ」(マタイ伝)

 聖書マタイ伝のなかのキリストの言葉は、道徳の黄金律としてキリスト教国の人たちの行動の規範をなしています。

 つまり、自分のして欲しいように人に対して行えば、人は必ずそれを有り難く思い、それをまた愛情で返すことになるという、人間相互の信頼がそこにはあります。

 先にも述べたように、多民族国家の英米人は、人と人とのつながりが薄い分、かえって人とのつながりを強く求めるのです。それ故に、他人の親切や好意にこの上もない喜びを感じるわけです。だから、他人にも同じ有り難さを感じてほしいと願い、その結果が、「己の欲する所を人にも施せ」という考え方になるのでしょう。

A 日本人の考え方

 ところが同じようなことを別の角度から述べた日本のことわざに

・ 「己の欲せざる所を人に施す勿れ」(論語)

があります。これは、ご存じのように、「論語」の名言から引用したものですが、日本人の道徳律の根幹をなすものとして知られています。

 英語のことわざが肯定的に述べていることを、日本語のことわざは否定的に述べています。つまり、単一民族の日本人は、狭い国土にひしめいていて、隣近所の付き合いが大変であり、また干渉も多いのです。世間の目がうるさく感じられ、もっと広い、自由な世界を求めるようになります。つまり日本人は、他人の好意を親切として受け取るよりも、むしろ有り難迷惑に感じる傾向があるのです。その結果が、「己の欲せざる所を人に施す勿れ」と考えるようになるのでしょう。

B 二つの道徳律の長短

 ところで、このような英米と日本の二つの道徳律は、それぞれが絶対的に正しいといえるほど、完全なものでしょうか。いや、そこには問題がないわけではありません。

 英米人の場合はどうでしょうか。「自分のして欲しいように人にもせよ」という命題は、一定の条件を満たすかぎりでは正しいことだといえるでしょう。しかしどこでも、いつでも、誰にでも当てはまるかといえば、必ずしもそうでないことが知られます。

 この教えの根底には、人間はみな同じであるとする考え方があります。つまり、自分のして欲しいことは、人はだれでも、いつでも、して欲しいと思うという独断があります。しかし、自分のして欲しいことは果たして人もして欲しいでしょうか?もしそう考えるならば、それは偏見です。

 皮肉屋のバーナード・ショー(イギリスの劇作家・批評家1856〜1950)がそれを見逃すはずはありません。彼は、このことわざを逆転させ、次の名言をつくりました。

Do not do unto others as you would that they should do unto you. Their tastes may not be the same. [George Bernard Shaw]
《自分のして欲しいように人にしてはいけない、人の好みは同じでないから》(バーナード・ショー)

 日本人の場合、「自分がイヤなことは誰でもイヤだから、人にしてはいけない」とか「人様の迷惑になるようなことはしてはいけない」というのは、そのとおりだと思います。これは、母親がよく子供に教えることですし、事実、日本人はこの狭い島国で、なるべく人の迷惑にならないようと、生きてきました。確かに、そのかぎりではいいことですが、それだけでいいのかというと問題があります。

 つまり、迷惑をかけさえしなければ、何をしてもいいかということが問われるのです。例えば、女子学生の援助交際が問題にされますが、彼女らは人に迷惑をかけないのだから、なにが悪いのか、と開き直るのをテレビで見たことがあります。さらに、自殺志願者を周りのものたちが止めるのは、本人にとっては迷惑だから、死にたいものには死なせてあげた方がいい、という若者の言葉もテレビで聞いたことがあります。

 このように、迷惑をかけなければいい、という消極的態度だけでは、駄目だということは明かです。そこには、善とは何か、正義とは何か、という視点が欠落していますし、もっと大切なことは、人間は善いことや正しいことをしなければならないという、義務感や道徳意識を持たなくてはならないということです。

C 新しい道徳律は?

 最近の世界情勢を見てもイラクへのアメリカの介入は、果たして正しいのでしょうか。たとえアメリカが自由と民主主義とをイラクへ輸出し、イラクへ根付かせようとしても、イラク人がそれを受け入れたいと思うかどうか、大いに疑問です。イスラムの思想は近代西欧の民主思想とはかなり違っていることはみなさんもご承知です。ましてそれが、武力でもって強制しようとすれば、拒否反応を起こすのは当然です。

 してみれば、この命題は「自分のして欲しいように相手にもせよ」ではなく、「相手のして欲しいように相手にせよ」でなければならないと思います。この意味で、新しい道徳律を私案としてつくってみました。

「相手の欲する所を施し、相手の欲せざる所を施すなかれ」

 だが、そこにも問題があります。自分のして欲しいように思う相手のその思いが、正しく、善いものであればいいのですが、もし間違った、とんでもないものであったとしたなら、どうでしょうか。そんな相手の思いに迎合することは、断じて許されません。

 このように考えてくると、結局、それぞれのことわざはそれぞれの人間が善なるものであることを前提にしていることが判ります。もっとハッキリ言えば、「己の欲すること」も「己の欲せざること」もその中身は正しいもの、善なるものでなければならないと言えます。その意味で、この私案のことわざも不完全なものとして、葬られる運命にあります。


(2)攻撃型の英米人と守勢型の日本人

《攻撃は最大の防御》vs「焼け野の雉(きぎす)夜の鶴」

@ クマに襲われたとき取る姿勢の違い

 むかし会田雄次さんという元京大教授は、日本人の奥さんとアメリカ人の奥さんの両方に次のような質問をしました。(「日本人の意識構造」会田雄次・講談社現代新書)

 「熊か強盗に襲われたとき、あなたは子供をどのようにして守りますか」

 それに対する答えとして返ってきた子供の守り方は、日米正反対であったといいます。アメリカ人の奥さんはすべて、子供を抱かずに後ろへはねのけ、相手に直面し、両手を広げて仁王立ちになる。それに対して、日本人の奥さんたちは全員、子供を胸に抱きしめ、熊や強盗の方に尻を向けうずくまる防御態勢を取る、というのです。

 この姿勢から、会田さんは、英米人の性格は攻撃型で、日本人のそれは守勢型であるといいました。

 このような性格の違いは、例えばスポーツの野球ひとつを取ってみてもわかります。アメリカ人の野球は攻撃型で、バッターはカウントは0−3でも打ちに出ます。ところが、日本人は待球主義です。ちなみに、アメリカでは攻撃の中心は打者という考えから、打者に有利な数え方をするので、1ストライク3ボールはアメリカでは3ボール1ストライクと、ボールの方を先に数えます。

A 英米人の特性=《攻撃は最大の防御》

 多民族国家で、自由主義社会の欧米は、どうしても競争社会になります。競争が激しくなれば、食うか食われるかです。そこでは他人に対して、否応なく攻撃的にならざるを得ない。戦いが日常茶飯事となります。そのようなヨーロッパ人の攻撃性を表すことわざがあります。

Offense is the best defense.
「攻撃は最大(最善)の防御」


 欧米人にとって善とは悪と戦うことです。ヨーロッパの物語は善と悪の戦いが根底にあります。いま映画や小説で売れているハリーポッターも、そのような正義と悪との戦いですね。そして、最後は悪を滅ぼしてハッピーエンドで終わるというのが、西欧の物語の定番です。

 日本にも、それに近い次のようなことわざがあります。

「先んずれば人を制す」

 しかし、これは似て非なるものといえます。攻撃そのものを推奨することわざではなく、たんなる戦術論にしかすぎません。相手の「出鼻をくじく」とか「意表をつく」という意味であり、日常生活の手練手管にも使われるものです。

 戦術論といえば、実際の戦闘場面においても、日本軍の攻撃は、ワンパタンであったと言われています。正面をつかない、敵の裏をかく、油断の隙をつく、これらは戦国時代の武士の闘いの常套手段であって、それの伝統が最近の戦争にも用いられていたのです。そのような攻撃のパターンは、すでに連合軍の読みのなかに入っていたといいます。

B 日本人の特性=「焼け野の雉(きぎす)夜の鶴」

 日本人の性格を、見事に言い表した次のようなことわざがあります。

・ 「焼け野の雉(きぎす)夜の鶴」

 キギスとはキジのことで、キジには次のような習性があるといいます。山火事や野焼きがあると、キジはヒナをを救おうとして巣に戻り、子供のヒナを懐いたまま焼け死ぬといいます。また、ツルも霜の降りる寒い夜は、子供を翼で覆って守るといいます。親が子を思う情の切なることを喩えることわざです。これなどは、会田雄次さんのクマに襲われたとき取る母親の行動と、まったく同じではありませんか。

 日本人は敵とか悪とかに対して、真正面から向かっていって、戦おうとしないのです。日本人にとって、「善」とか「正」とかは「悪」や「邪」と戦うことではありません。では何かといえば、それは善悪・正邪にかかわりなく、与えられたおのれの義務や世間様にたいする義理を立派に遂行することなのです。

 だから、日本では昔からの物語でも、近代の小説においても、正義が不正や悪と戦うという激しい葛藤の情況は少なく、義理と人情の板挟みというような、どちらも正しいものが軋み会うというようなストーリーが多いのです。そして悪いのは自分であるという思いから、死を選ぶということになるのです。このような自罰的な解決の仕方が日本人好みなのです。

C 戦いを求める遊牧民族

 日本人は戦国時代などを除けば、概して平和の中に安定した生活を求めてきたと言えます。単一民族だから、互いに気心は知れているし、部族集団はたいていよくまとまっていました。よその部族へ進入してその耕作地を奪うというようなこともありませんでした。そこへいくと、欧米人はまったく違います。大ざっぱな分け方をすれば、欧米人は牧畜民族であり、牧畜民族特有の闘争の歴史をもっているのです。

 ヨーロッパの気候は、夏は乾燥し、冬は湿気が多く、植物の生育にはあまりよい条件ではありません。「ヨーロッパには雑草がない」と和辻哲郎は「風土」の中でいっていますが、雑草が育たないということは穀物の栽培には不利だということです。そもそもヨーロッパの土地は土壌が悪く、太陽の光にも恵まれておらず、むかし、その生産性は極端に低くかったのです。少しでも春の訪れが遅くなると、たちまち作物の不作は致命的となり、飢饉に見舞われました。そのため、乏しい食糧を巡って絶えず激しい争いが繰り広げられたのです。

 このように農耕に適していない土地だから、いきおい荒れ地にはヒツジやウシを放牧するということになるのでした。しかし、牧草も決して潤沢ではありません。すぐに食い尽くされてしまいます。すると、彼らはさらに新たな牧草地を求めて、移動しなければなりません。他民族との角逐が生まれ、ついには略奪や殺戮が発生することになるのです。

 このような白人社会の戦いの歴史の中で生まれたのが、征服するか征服されるかという非情な弱肉強食の論理です。それを代弁する次のようなことわざがあります。

・ A just war is better than an unjust peace. 《不正の平和より正しい戦争の方がまし》
・ War is the sport of kings.《戦争は王のスポーツ》
・ Divide and rule.《分割して統治せよ》


D 行動しないことはそれだけで悪という英米人

 戦うことが生活の基本である遊牧民族でも、戦ってばかりはいられません。やはり生活の安定が必要ですから、まず戦わずして勝つ「外交」に力を注ぎます。外交では、言葉の駆け引きやレトリックが物をいうことになります。自ずとコミュニケーションの技術が発達します。その場合、コミュニケーションといい、社交性というも、ただ相手と仲良くするための技術ではありません。相手を説得し、征服するために、言葉のもつあらゆる力が動員されるのです。弁論術は闘争のための手段なのです。

 要するに、欧米人は戦争においてだけ、攻撃的であるのではありません。平和時の普通の生活においても、積極的、行動的なのです。

 日本には、

「小人閑居して不善を為す」

ということわざがあります。これはつまらない人間は暇であると、良からぬことを考えたり、しでかしたりするというものです。しかし、英米のことわざはもっと徹底していて、たとえ悪をしなくても、善をしなければそれだけで悪である、というものです。

He who does no good does evil enough.《善をなさざるものはそれだけで悪をなすに等しい》
Doing nothing is doing ill.《何もしないことは悪事をすることと同じである》


 すなわち、《無為は悪を生む原因になる》という日本人の考え方に対して、《無為すなわち悪である》と極言するのです。

 さて、行動力を比較してみると、菜食民族でエネルギーの不足しがちな日本人は、何事もまことに淡泊です。熱中することはもちろんありますが、すぐに熱が冷めます。持続力がなく、忘れっぽいのです。誰かに被害を受けても、性格的にあっさりとしている日本人は、過去は過去として、水に流そうとします。

 それに対して、英米人は肉食人種特有のねばり強さで、信念に基づいて一度やり始めたことは最後までやり抜こうとします。英米人の復讐心、リベンジの激しさには定評があります。一度受けた被害は、簡単には忘れません。過去にこだわるその国民性を、牧畜民族の肉食文化と農耕民族の菜食文化の差だと説明する人もいます。(鯖田豊之「肉食の思想」中公新書)

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