本 論      

 《 ことわざによる日英比較文化論 》                 安藤 邦男

 さて、序論では、日英のことわざの違いを、言葉と表現の面から見てきたのですが、以下本論ではことわざの背後にある文化そのものを取り上げ、その違いを考えてみたいと思います。

1.おしゃべりな英米人、だんまりの日本人

(1)おしゃべりな英米人 


@ 多民族国家の欧米


 数年前、カナダへ行ったときの経験です。バンクーバーからビクトリアまで一泊旅行し、その帰りの船旅のとき、退屈なので、座席でついうとうととしていると、隣にすわった若い白人の父親が2歳ぐらいの子供にひっきりなしに話しかけている。子供は小さいので話の内容は判らないまま、ただ聞いているだけですが、片道1時間半ほどのあいだ、父親は飽きもせず延々と話しつづけていました。
 そのとき忽然と悟ったのは、親の話をちょうど子守歌のように聞いて育つ子供は、成人すると同じように子供に話しかけるに違いないということでした。ヨーロッパ人の饒舌の文化は、こうして親から子へと代々受け継がれていくのだなと、感心しました。

 ではなぜ、欧米人は多弁なのでしょうか。単一民族で閉鎖的社会の日本と違って、多くの国が隣り合わせになっている欧米では、国の内外を問わず異民族、異人種との接触が盛んです。とくに、アメリカにいたっては、人種の坩堝といわれるほど多くの国から移民が来ております。習慣も文化も歴史も違う人間同士が、黙っていたのでは意志の疎通はまったくできません。彼らは自分がどういう人間であり、どういう目的でここにいるかとか、何を望んでいるとかなど、できるだけ相手に語ることで相手を信用させなければなりません。多弁にならざるを得ないわけです。

 次のようなことわざがあります。

・ So many countries, so many customs.《多くの国に多くの習慣》(cf.「所変われば品変わる」)
・ As many heads, as many wits.《人の数だけ知恵がある》


A コミュニケーションの尊重

 日本では、意見の違いはうまくいっていない証拠とみなされますから、仲良くするためには、なるべく言いたいことも言わずに我慢することが大切とされます。しかし、お互いに意見の違いがあるのを当然と考える英米では、人間同士の友好関係は自分の思うこと、信じることを相手にハッキリぶつけることで積極的に作り上げることだという共通理解があります。そして、そのような社会で大きな力を持つのは言葉の力、言論の力です。言葉を讃えることわざは、次のように多くあります。

・ Conversation teaches more than meditation.《 一人で考えるより話し合う方がよく学べる 》

・ What everybody says must be true.《誰もが言うことは本当のはず》
・ The squeaking wheel gets the grease (or oil). 《きしむ車輪は油をさしてもらえる》
Call a spade a spade.《鋤は鋤と呼べ》「歯に衣(きぬ)着せるな」
Where there is whispering there is lying.《内緒話には嘘がある》
Don't beat about the bush.《薮のまわりを叩いて獲物を駆り立てるな》(遠回しにいうな)

・ The pen is mightier than the sword.《ペンは剣よりも強し》
・ Words cut more than swords.《言葉は剣よりもよく切れる》
・ The voice of the people is the voice of God.《民の声は神の声》 「天声人語」


B 話し言葉に適した英語

 表意文字である漢字を多用する日本語は、どちらかといえば読み書きに適した言語ですが、英語は表音文字ですから話したり聞いたりするのに適しています。そのことは、ラジオやテレビでを聞くとよく判ります。例えば、テレビニュースの二重音声を同時に聞いてご覧なさい。英語を話すアナウンサーの早いこと、同じ事件を報道するのに、英語のアナウンスが終わってからも日本語はその2倍くらいの時間をかけて続きます。まるで機関銃と単発銃ぐらいの差があります。

C 言葉の尊重は聖書の教え

In the beginning was the Word, and the Word with God, and the Word was God.(St. John 1) 《はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき》(聖書) (ヨハネ伝1)
 英米人の多弁・饒舌は、聖書のなかの言葉にその遠因があるようです。つまり、言葉とは、理性・法則などを意味したギリシャ語のロゴスであり、それは同時に神でもありました。欧米人の言葉信仰、理性信仰は聖書とともに古いといえます。

(2) だんまりの日本人 

@ 日本人の3エス


 強く自己主張する英米人に対して、日本人は断定を好まず、すべてを控えめに言います。明確な論理を駆使せず、ファジーで、なまぬるいのが日本的表現なのです。自己主張という観点からは、日本人は英米人の対極の位置にあるといえます。次のことわざはすべて、言葉を否定あるいは抑制するものです。

「以心伝心」
「言葉多き者は品(しな)少なし」
「口は災いの元」
「話し上手の仕事下手」
「言わぬはいうにまさる」
「能ある鷹は爪を隠す」
「秘すれば花」(世阿弥)

 もっとも、プライベートな場では、日本人はしゃべることが大好きです。井戸端会議は花盛り、うわさ話の天国です。飲み屋などでアルコールが入ると、大声で上司の悪口を言って憂さ晴らしをする。それが、いったん会議の席になると、自説を述べることはせず、上司の御説ごもっともと受け入れる。これが日本人です。

 欧米人の目から見て、会議中の日本人習性はよく 3S という言葉で表されていました。国際化の現在では、そんなことはなくなってきたようですが、3Sとは
SILENCE、SMILE、SLEEP のことです。 すなわち、黙っているか、にこにこしているか、居眠りしているか、です。

 そこまで会議を無視する日本人は、現在ではいないでしょうが、それでも日本人は本質的に議論が下手です。その理由として考えられることは、昔から日本には議論する風土がなかったということです。タテ社会では、とくに上役の言い分は黙って聞くという習慣があって、話し合いが日本人は不得意でありました。

 それには、歴史的背景があります。封建時代、上に対して意見を述べることは、死を覚悟の上でのことでした。例えば、幼少より奇矯な振る舞いの多い尾張のうつけ者と呼ばれた信長。万松寺における父信秀の葬儀のおり、喪主信長の「大うつけ事件」による守り役の平手政秀は、死をもって信長を諫めたといいます。この平手政秀の死がこたえたのか、その後信長の素行は改まり、尾張一国の統治者として行動するようになったと云われています。

 現代でも日本人のDNAには、このような傾向が存続しています。だから、意見を主張する人間をうるさいと嫌い、
「一言居士」といって敬遠します。逆に意見を述べない人間を「能ある鷹は爪を隠す」「男は黙って・・・」といって尊敬する。才人の大久保利通より、寡黙で人情に厚い西郷隆盛の方が、日本人好みなのです。

 だがこのような日本人の特質は、今日の国際化の時代には通用しません。欧米人の言語習慣は、日本人のそれとはまったく違います。欧米流の考えでは、意見を言わないのは、言う能力がないからだ、つまり知能が低いからだと考えられ、無能の証しとされるのです。

A 寡黙が生む文化

 もう一つ、日本人の特質としてあげなければならないことは、短小志向、すなわち小さなものを好むという傾向です。例えば、トランジスタラジオ、携帯電話、盆栽、庭石などの、身の回りには小さなものが満ちあふれています。

 そしてこのような小さなものを好むという傾向が、先に述べた寡黙の性格、言葉をなるべく少なく、省略できることはできるかぎり省略するという日本の風土と結びついたとき、独特の短詩形文学、俳句や短歌が生まれました。これほど短い詩は世界にはありません。

B 日本語の曖昧表現

 また、日常の言語表現の分野でも、同じように省略した形が多用されます。例えば、挨拶言葉の「お早う」、「こんにちは」、「さようなら」、「ありがとう」などは、すべて後ろに続く言葉を省略して出来たものです。さらに代表的な言葉に、「どうも、どうも」があります。これなどは、何でもくっつき、どこでも、いつでも、使える言葉として、外国人などには重宝がられているようです。

 外来語についても同じようなことが起こります。ワードプロセッサーは ワープロに、テレビジョンは テレビに、ハンカチーフは ハンカチに、などです。

 しかし、このように言葉を少なくし、省略を多用すれば、どうしても言葉は曖昧になり、明瞭性を欠くことになります。日本語の特徴である曖昧表現が生まれるのです。

 このような曖昧表現は、表現の省力化から生まれるだけではありません。それは相手を傷つけたくないという思いやりからも生まれるのです。つまり、はっきり「ノー」といえば角が立つ。それを避けるために、なるべく結論を先送りし、その間に相手に「ノー」の気持ちを悟らせるという戦略を採るのです。

 ファジー感覚というか、自己主張をせず、何ごとも玉虫色の表現で処理しようとするのが、日本的対話の特徴であります。明瞭よりも曖昧を、光彩よりも陰影を好むのが日本語の論理であり、日本人の性向です。

C「沈黙は金」の日英の違い

 日本人の好んで使うことわざに
「沈黙は金」がありますが、自分の寡黙の言い訳、もしくは寡黙を肯定してくれる助っ人として、このことわざを使います。

 英米にも
次のように、「沈黙は金」を勧めることわざがあります。

・ Speech is silver; silence is golden.《雄弁は銀、沈黙は金》

 しかし、このことわざは、英米と日本ではその使われるシチュエーションが違います。英米人は沈黙の国民どころかその逆で、すごいおしゃべりです。だから英米では、そのおしゃべりを戒めてこのことわざを使うのです。それは、次のことわざを見ても判ります。

・ He cannot speak well that cannot hold his tongue. 《黙ることを知らないものは話し上手ではない》

 すなわち、英米人は多弁の国だからかえって沈黙の意味の大切さを忘れる傾向があるのです。それを戒めてこのようなことわざが使われるのです。


 しかし、この
「沈黙は金」には別の説があります。それによれば、19世紀末まではヨーロッパは銀本位制で、銀の方が評価が高かったというのです。だから、Speech is silver; silence is golden.は、雄弁を称揚することわざであったというのです。それが金本位制になって、いつの間にか主客逆転し、雄弁が沈黙に勝ったというわけです。日本ではとくに、後半のsilence is golden.「沈黙は金」儒教精神の「巧言令色鮮(すくな)し仁」と結びついてもて囃されているのは、ご承知の通りです。

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