3.誤解される異文化                    安藤邦男

(1)日本語の難しさ


@ オルコックとザビエルの驚き

・ Oh, East is East, and West is West, and never the twain shall meet.(Rudyard Kipling 1865-1936)「東は東、西は西、両者あいまみえることなし」(ルドヤード・キプリング)

 カルチャー・ショックという言葉があります。これは、それまで馴染んできたものとまったく違う習慣や文化に出会ったとき、受ける驚きの激しさをいう言葉です。上記の引用は、キプリングの詩からのものですが、東洋と西洋の文化の隔たりは両者の融合を困難にするほど大きいといっているのです。

 国際化の進んだ現代では、このカルチャー・ショックはそれほどではなくなりましたが、ひと昔前の人たちはさぞ大きなインパクトを与えられたことでしょう。

 例えば、幕末に日本にやってきたイギリス大使オルコックは、日本人の動作や身振りはイギリス人とはまったくあべこべだと驚き、次のようなことを書いています。(岩波文庫「大君の都」参照)

 「カンナやノコギリはイギリスでは押して削るが、日本人は引いて削る。 反対に、鉛筆などは日本人は押して削るが、イギリス人は手前の方へ引いて削る。マッチも日本人は押してするが、イギリス人は引いてする。錠のまわし方も開けるのと締めるのとでは逆さまであるし、馬に乗るのもさかさま側から乗る。」

 オルコックに言われなくても、少し考えただけで、日米逆の動作や習慣はいくつかあります。例えば、ジェスチャーでは、日本の手招きは来いの合図ですが、英米では向こうは行けの合図に近いですし、封書や葉書の宛名書きでは、日本では、県、市、区、町、番地、名前となりますが、英語はその逆、名前から始めます。姓名の言い方も、日本は性が先、名が後ろですが、英語は名前が前、姓は後ろに来ます。

 もう少し歴史をさかのぼりますと、1549年(天正18)日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、日本の風俗習慣だけでなく、日本語という言葉そのものに衝撃を受けました。そして彼はこれを「悪魔の言葉」と呼んだのです。省略が多く、敬語や助詞の使い方が複雑な日本語は、ヨーロッパ人の彼には理解を超えた不思議なものとして映ったに違いありません。

A 日本語を学ぶ外国人の悩み

 今日でも、日本語を勉強しようとする外国人は、その複雑さに苦しみます。ここで、少しばかり外国人の悩みを取り上げてみましょう。

 例えば、同じ日本語でもアクセントが違うと意味が違ってくる。標準語アクセントで「はし」は箸だが「はし」となると「橋」になります。しかも、関西へ行くとアクセントが逆になり、意味が反対になります。だから「箸を握って橋の端を走れ」を、関西人と関東人にいわせるとまったく逆になり、意味が通じなくなるのです。英語の場合は、アクセントは国中で同一ですから、英米人にはこれが不思議に思えるのです。

 同音異義語の多さも英米人には驚きです。例えば「コウセイ」を辞書で引くと約100の熟語が載っています。日本人でも10も書ければいい方です。例えば「キシャのキシャがキシャでキシャした」を漢字で書こうとすると、われわれ日本人でもむつかしいですね。外人はお手上げです。最もいまのパソコンのワープロソフトは性能が良く、一発で転換してくれますが。

 外国人を一番悩ませるのは、日本語があまりに情況に密着しすぎた言語であるということです。情況あるいはコンテクストを離れると、日本語は意味がまったく伝わらないということです。例えば、「おれはウナギだ」「おれはタマゴだ」という言葉があります。日本人にはすぐ丼のことと判るのですが、外人は「どうして人間がウナギなのか」と不思議がります。レストランで食事を注文するシチュエーションを与えられて初めて判るというものですが、シチュエーションがなければ判らない。

 もっと判らない言葉があります。「私の娘は男です」「私の息子は女です」という表現です。 ちょっと聞くと、馬鹿か気違いの言葉と思うでしょう。さもなければ、はやりの性転換の話かと思いますが、そうではありません。二人の熟年の男が孫のことを話しているのです。情況のなかにおけば、意味不明の言葉も立派にコミュニケーションの働きをするのです。

 同じことは主語についてもいえます。日本語の文脈では主語は非常に少ない。とくに「私」などはほとんど使わない。使わなくても判るからです。つまり状況に依存して、発話するわけです。日本語が情況依存の言語といわれるゆえんです。

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