教訓のテーマから索引できる
英語ことわざ教訓事典
(和訳・解説つき)
どのような特長があるか
・どんなことわざも、直接にまたは間接に、教訓を含んでいます。
・ことわざには、すべて教訓が含まれています。それは、教えであり、諭しであり、戒めであり、助言であり、批評であります。ことわざは、その教訓を直接述べる場合もありますが、多くは比喩の形を借りて言い表します。
・その教訓を取り出し、テーマ別・カテゴリー別に分類したのが、この事典です。
・このホームページでは、今日よく使われている英語のことわざから、その教訓を抽出し、それを教訓のテーマおよびカテゴリーに分類してあります。いわば、ことわざの知恵を体系化したものといえます。
・体系化されているので、英語のことわざの知恵の全貌をつかむことができます。
・テーマ別・カテゴリー別に分類されているので、みなさんは英語のことわざの知恵の全貌をつかむとができます。
・すべて和訳付きですから、日本語訳だけ読んでも、ことわざの面白さを楽しむことができます。
・英語のことわざには全部和訳が付けてありますから、英語が面倒な方は日本語の部分だけ読んでも、十分楽しむことができます。
どのように利用すればよいか
・教訓のカテゴリーまたはテーマから、英語のことわざが簡単に索引できます。
・従来のABC順のことわざ辞典では、伝えたい教訓があってもそれを表すことわざを探すのがなかなか大変でした。その短所を補うのが、この教訓別の分類事典です。ここでは、英語のことわざを教訓別に分類してありますから、ことわざを知らなくても、教訓のテーマさえ分かっていれば、それからことわざを引くことができます。
・日本のことわざからも、英語のことわざが引けます。
・英語のことわざに相当する日本語のことわざも、400例以上載せてあります。このページの最後の索引を利用すれば、日本語のことわざから英語のことわざを引くことができます。
・英語のことわざは、ABC順の索引からも引くことができます。
・このページの最後には、集められたすべての英語のことわざがABC順に配列されていますから、それを利用すれば、知らない英語のことわざの意味がわかります。
どのような構成になっているか
・この事典は五つの章からなり、それぞれがいくつかの節とカテゴリーに分かれています。
・この事典は、「第1章・ものの見方」 「第2章・人間の生き方」 「第3章・成功の条件」 「第4章・人間の社会」 「第5章・人間の文化」 「第6章・人間の内面」と、五つの章からなり、それぞれの章にいくつかの節があります。さらにその節は、いくつかのカテゴリーに分かれています。
・教訓のカテゴリーは、全部で75あります。
・ 印のついた項目が、教訓のカテゴリーです。それぞれの項目には、カテゴリーが何を扱っているかの説明があります。その下に、カテゴリーに含まれる教訓のテーマが載せてあります。
・教訓のテーマは、全部で264あります。
・教訓のテーマは「教訓 1 」 から「教訓 264
」まであります。日常生活で必要な教訓はほとんど網羅されています。それぞれの教訓のテーマごとに、類義の英語のことわざがいくつか並べられています。
・集められた英語のことわざは、約1400例あります。
・英語のことわざは、全部で1400ほどあります。いずれも、今日英米および日本でよく使われている英語のことわざばかりです。気に入ったものを選んでご利用下さい。
・ 印のカテゴリーをクリックすると、それぞれのカテゴリーに属する教訓テーマごとに、英語のことわざが現れます。
第1章 ものの見方
1 二項対立の論理
物事の二面性について教える
とかく世の中には、ものを一面的にしか見ない人が多くいます。人物評価も偏りがちで、公正な判断ができません。そのような人には、「バラに刺あり」や「悪魔は絵に描かれているほど黒くはない」というコトワザで、何事にも二面があることを教えてあげてください。また、会議などで、非は相手にあり、自分は絶対に正しいと頑なに主張する人がいますが、物事はそんなに単純ではありません。状況によって「甲の薬は乙の毒」になることもあるし、「みんな否定したら、みんな白状したのと同じ」で、
自己主張の強さが逆に墓穴を掘ることもあることを知って欲しいものです。
教訓 1. ものには矛盾する二面がある。
教訓 2. ものには対立する相手がある。
教訓 3. ものは正反対のものに変化する。
2 遠くのものと近くのもの
身近にあるものの利点を教える
人のものをうらやみ、自分のものをつまらなく思う人がいます。競争社会に生まれる嫉妬心のせいでしょうか。それとも近代人に特有の自己嫌悪のためでしょうか。そんな人への忠告としては、平凡ですが「わが家にまさるところなし」や「手の中の鳥は一羽でも藪の中の二羽に値する」など、身近にあるものの価値を説くコトワザが当てはまります。また、家族や家庭を放りっぱなしにしておいて、他人のボランティア活動に奔走する人がいますが、疑問を感じませんか。やはり「博愛はわが家から始まる」のでなければなりません。家族を愛してこそ他人を愛することができるのです。
教訓4. 近くにあるものが一番よい。
教訓 5. 現在所有しているものが一番よい。
身近にあるものの不利を教える
全国的に人気のある政治家ですが、どういう訳か地元や親族の間ではあまり評判がよくない人がいます。自分自身の身に置きかえても、思い当たる節はありませんか。会社では上司や部下の信頼が厚いのですが、家へ帰ると女房や子供に馬鹿にされるという愚痴をよく聞きます。そんな人にコトワザは教えてくれます。「狎れ親しむと軽蔑心が生まれる」のです。「召し使いに対し英雄であるものはいない」し、「予言者は家郷に入れられない」のです。だから、人間関係を円滑に保つためには、ある程度の距離をおくことが必要なのです。「よい垣根がよい隣人をつくる」のです。
教訓 6. 近くにあるものは軽んじられる。
教訓 7. 現在という時間には魅力がない。
教訓 8. 近くにあるものは見えにくい。
教訓 9. 人間関係には距離をおけ。
遠くのものへの期待について教える
いつもベッドに同衾する夫婦は、かえって離婚率が高く、単身赴任などで別居を強いられる夫婦の方が仲むつまじい、という話をよく聞きます。どうやら、人間関係におけるキーワードは、「距離」のようです。「距離」は、ものに魅力と尊敬を与える最大の要因のようです。「別れた人の方が一層恋しさを募らせる」し、「隣の芝生はいつも青い」のです。しかし、この心理が高じると、「禁断の木の実が一番甘い」となり、他人の領域を侵すことにならないとも限りません。でも、安心です。その行き過ぎに警告を発してくれるコトワザもあるのです。「好奇心が強すぎると楽園を失う」と。
教訓10. よいものは去っていく。
教訓11. 遠くのものには憧れがわく。
教訓12. 隣の芝生は立派に見える。
教訓13. 現実より将来への期待の方が楽しい。
遠くのものの不利について教える
しかしその反面、遠くにあるものが必ずしも好ましく思われるとはかぎりません。去った恋人への思慕もいつまでも続くわけでなく、「去る者は日々に疎し」で、たいていはすぐに忘れるものです。別居結婚から離婚へと発展するケースもまれではありません。のみならず、会社の上司もその場にいないと、部下に陰口をいわれるのが落ちです。「不在のものはいつも悪者にされる」のです。同じように、時間的に遠く先のこともやはり不利です。1、2ヶ月も遠い先のことになると、「必ず生じるのは予想外のこと」で、予定は狂うものです。また、「好事魔多し」で、期待はなかなか実現せず、「待つ身は長い」ものです。
教訓14. 遠ざかるものは忘れられる。
教訓15. 将来の期待はなかなか実現しない。
3 外見と中身
美の価値について教える
人間だれでも、美しきものには心を惹かれます。とくに男は美女に弱いのでしょうか、「美貌が邪悪な心をもつはずがない」と思いこみ、後で幻滅を味わうことがしばしばあるようです。それはそれでいいのかもしれません。「美しきものは永遠の喜び」だからです。しかし美しいものは、女性だけではありません。芸術作品のすばらしさや、自然の景観の見事さにも、心を打たれて欲しいものです。日本には「日光を見ないうちは結構と言うな」があるように、英語にも「ナポリを見て死ね」があります。無趣味な仕事人間に、是非とも勧めたいコトワザではありませんか。
教訓16. 美しきものはよきもの。
美の一時性・危険性について教える
しかし、美は永遠の喜びであるといっても、誤解しないで欲しいのですが、永遠なのは美に対する感動であって、美そのものではないのです。美はむしろ、もろくはかないもの、「容色は花のごとく色あせる」「一番美しい花が一番早くしおれる」ものなのです。今を盛りの美女も、それに魅了される若者も、ともに銘記すべきコトワザでしょう。また、美が幻想であることを暴くコトワザに「美人というも皮一重」がありますが、美形の背後にあるものを見よ、という教訓です。だが、はかない美には強い力があることも忘れてはなりません。「美貌は牛よりも引く力が大きい」などのコトワザは、美の力の危険性を指摘しています。
教訓17. 美は短命で、醜と隣り合わせ。
教訓18. 美の力は強く、危険である。
美の主観性について教える
日本には「夜目遠目傘の内」という一種の謎かけコトワザがありますが、これはご存じのように女性が美しく見える条件を述べています。美は、見る場所、見る時間、見る人によって、大きく違ってきます。英語のことわざも同じことを言います。白昼には薄汚い野良猫も、「暗やみでは猫はみな灰色で美しい」となります。美には客観性はないと思わなければなりません。ずばり、「美は見る人の目の中にある」と教えるのもよいかもしれません。人の好みについても、同じことがいえます。「タデ食う虫も好きずき」「好き嫌いには理由がない」といって、好みの主観性を指摘します。
教訓19. 美は見る人の目の中にある。
教訓20. 人の好みも主観的である。
外見と中身の不一致について教える
今度は、美を含む外見一般について考えてみましょう。今日でも、表面は一分の隙もない紳士が希代の詐欺師であったという事件が、よくマスコミで報じられます。騙した奴も悪いが、騙されたものも油断があったとして、用心を呼びかけるのが報道の常套手段ですが、ことほどさように、外見と中身は食い違うものです。「光るもの必ずしも金ならず」で、泣かされる場合が多いのですが、ときには「犬の吠える相手が泥棒とはかぎらない」こともあって、外見は悪いが中味のよい場合もあります。いずれにしても、「見かけは当てにならない」から、「本の中身を装丁で判断するな」というのが、コトワザの教えです。
教訓21. 外見と中身は必ずしも一致しない。
教訓22. 見えない中身には用心せよ。
教訓23. 外見がよくても中身は悪い。
教訓24. 外見が悪くても中身は立派。
教訓25. 外見で判断するな。
外見と中身とどちらが大切かを教える
では、われわれ自身の生き方の問題として、外見を重視すべきでしょうか、それとも中味を大切にすべきでしょうか。一方には「馬子にも衣装」で、「立派な衣服が人をつくる」とするコトワザがあります。形を整えれば、それにふさわしい内容が自ずと形成されるという考え方です。それに対して、「衣服は人をつくらず」のコトワザも多くあります。「顔は心の指標」や「振る舞いの立派な人こそ立派な人」などは、大事なのは中身であり、心や人格をみがけば、それは形となって外に現れ、人に評価されるというものです。さて、みなさんはとちらを選びますか。
教訓26. 外見が中身をつくる。
教訓27. 外見は中身をつくらない。
教訓28. 中身が外見をつくる。
4 小さなものと大きなもの
小さなものの価値について教える
一般に、人間は大きなものを好む傾向があるのでしょうか、小さなものはとかく軽視されがちです。だが、それに異を唱えるコトワザがあります。「小なるものは美しい」や「小さな魚は美味い」などです。しかしコトワザが小さなものを称揚するのは、それがやがて大きくなるからという理由からのようです。「大きなカシも小さなドングリから」といいます。この考えの背後には、小なるものが大きく成長していくためのたゆまない努力、継続の力への賛美があります。「塵も積もれば山となる」に類する英語のコトワザは、「小銭を大切にすれば、大金はおのずから集まる」などがあります。
教訓29. 小さなものは小さいなりに価値がある。
教訓30. 小さなものも次第に大きくなる。
教訓31. 小さなものを手段にして大利をあげる。
小さなものの不利や危険性を教える
逆に、小さなもののデメリットを指摘するコトワザもあります。「小事は小人を喜ばす」は、大人物はちっぽけなことには喜ばないという意味です。そのほかに、小なるものも危険なものがあるという警告のコトワザがあります。「生兵法は怪我のもと」だし、小さな危険を軽視すると、やがて「千丈の堤も蟻の一穴から」で、命取りになります。「わずかなタールを惜しんで船を駄目にするな」です。危険の芽は小さなうちに摘むにかぎります。だから「今日の一針、明日の十針」を忘れてはいけません。「1オンスの予防は1ポンドの治療に匹敵する」という教えを守りたいものです。
教訓32. 小さなものは不利である。
教訓33. 小さなものにも危険なものがある。
教訓34. 小さな危険はやがて大きな危険になる。
教訓35. 危険の芽は小さなうちに摘め。
大きなものの価値について教える
むろん、形の大きいものや数量の多いものが有利であるとするコトワザも、いくつかあります。「カシの木は一撃では倒せない」というように、大きければ少々の打撃もこたえません。また、共同作業では「人手が多ければ仕事は軽くなる」ので、多い方が得です。「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」「泥でも多く投げれば少しはくっつく」などがあります。ただ、大なるものを讃えたり、有利とするコトワザは、小なるもののそれに比べて、あまり多くはありません。それは、大きなもの、偉大なものが有利であるのは当然過ぎることなので、あえて賛美する必要がないからでしょう。
教訓36. 偉大な人間のすることは立派である。
教訓37. 大きいものや多いものは有利である。
大きなものの不利について教える
むしろ多いのは、大きなもの、偉大なるものの弱点を指摘するコトワザです。日本のコトワザも、身長や体格の割には体力が劣っていたり、知恵が不足していたりするアンバランスを揶揄して、「独活の大木」とか「大男総身に知恵が回りかね」とかいいます。英語にも「大きい木ほど大きく倒れる」や「偉大な人の罪は大罪」などがあります。これらのコトワザの裏には、やはり偉大なものの慢心を戒める意味が隠されています。安易に大きくなりたいということも、また実際は大きくないのに大きく見せかけようとするのも、ともによくないのです。「もぐら塚から山をつくるな」です。
教訓38. 大きいものはよくない。
教訓39. 大きく見せかけることはよくない。
5 全体と部分
全体より部分が重要であると教える
団体競技というものは、選手全員の力が一定のレベルに達していなければ、勝利を手中にできません。一人でも弱いものがいれば、そこが致命傷になります。「くさりの強さは一番弱い輪で決まる」は、全員を奮い立たせるのにピタリのコトワザです。部分の寄せ集めが全体ですから、各部分がしっかりしていれば全体がしっかりすることになります。だから、全体を知るには、部分を見ればよい、ということになるのです。「一握りで袋全体の中身がわかる」とか「一本のわらが風向きを教えてくれる」など、全体より部部を重要視するコトワザがいくつかあります。
教訓40. 部分が全体を支えている。
教訓41. 部分から全体がわかる。
部分より全体が重要であると教える
逆に、一部を見ただけでは全体が判らないという、全体重視のコトワザもあります。「井の中の蛙大海を知らず」のたとえ、自分の身辺だけを見たのでは、全体像を把握することはできません。視野の狭い人のことを「彼は鼻より先が見えない」とか「彼は森の中で迷っている」とかいいます。また、個々のものの意味は全体の状況や目的によって規定されたり、左右されたりするというコトワザがあります。「全体の状況が個々の立場を変える」とか「目的の達成は手段を正当化する」というのです。詐欺師のつく嘘は許されませんが、医者がガン患者につく嘘は許されるということでしょう。
教訓42. 全体が部分に優先する。
教訓43. 全体を見なければものはわからない。
全体と部分の関係を教える
その他、全体と部分の関係を考えるのに、注意すべき点を教えてくれるコトワザがあります。たとえば、「一握りで袋全体の中身がわかる」のように、部分から全体が判るとしても、その部分は少なすぎてはいけないので、ある程度の量にならなければいけない、というコトワザがあります。「ツバメが一羽きたとて夏にはならない」のであって、「一度に九つのヒナギクの花を踏んだら、春が来た証拠」というのです。それに、部分は大事だがあまり部分に気を取られすぎると、大局を見失うというのもあります。「木を見て森を見ず」や「見物人が試合の全体を見ている」などがそれです。
教訓44. 少ない部分からは全体がわからない。
教訓45. 部分に気を取られると全体を見誤る。
第2章 人間の生き方
1 人生と現実
世の中の変化について教える
世の中に存在するものは、すべて変化します。この世に、変化しないものは何一つありません。もしあるとすれば、「万物は変化する」という事実だけです。「『変化』以外に永久のものはない」のです。そして、変化があるから、人生は面白いのです。まことに「変化は人生のスパイス」です。しかし、変化といっても、たとえば人の生も死も、個人にとっては一回限りの事件ですが、巨視的に眺めれば、循環する四季のように、万人に巡りくる同じことの繰り返しにすぎません。その意味で「歴史は繰り返す」のです。だから「太陽の下に新しきものなし」とコトワザは教えてくれます。
教訓46. 世の中はさまざまな人でできている。
教訓47. 世の中のものはすべて変化する。
教訓48. 変化の中には繰り返しがある。
教訓49. 死は人間にとって必然である。
人間の運命について教える
人間の運ほど、不思議なものはありません。「銀のさじを口にくわえて生まれた」ものがさらに幸運を得て、「成功ほど続いて起こるものはない」とうそぶくかと思えば、私生児として生まれたものがさらに「泣きっ面に蜂」の不運に見舞われ、「なべの中から火の中へ」落ち込むことがあまりにも多いのです。運命の神は、まことに気まぐれという印象を与えます。「神は常に大軍に味方する」かと思えば「神は歯の抜けた者にクルミを授ける」からです。しかし、やはり神は正義と公正の象徴として、「天は自ら助くるものを助く」や「天網恢々疎にして漏らさず」であって欲しいものです。
教訓50. 幸運は続くものである。
教訓51. 不運も続くものである。
教訓52. 運命の神は気まぐれである。
教訓53. 人間も気まぐれである。
教訓54. 神は努力する人間を助ける。
人生について教える
人生に苦楽はつきものです。コトワザは、一方では「人生は甘美である」といい、他方では「長生きすると苦労も多い」といいます。そのような人生は、ありのまま受け入れなければなりません。「苦いものは甘いものと一緒に受け取れ」です。今日の競争社会では、常勝はあり得ません。「勝つ場合があれば、負ける場合もある」のです。また、いまの社会は平等社会でもあります。「世の中は相持ち」、「自分も生き、人も生かせ」の精神が必要でしょう。この世に生を受け、それを維持していく権利は、だれもが持っています。「われわれはみなアダムの子供」なのです。
教訓55. 人間はみな平等である。
教訓56. 人生には楽しみもあり、苦しみもある。
教訓57. 人生の苦楽をありのまま受け入れよ。
2 楽観主義の是非
楽観をすすめる
前章で触れましたが、「二面性」の観点から眺めると、人生は幸と不幸、禍と福の交替から成り立っていることが判ります。コトワザに、楽観を薦めるものと戒めるものとがあるゆえんです。まず、楽観をすすめるコトワザですが、背後には現実の苦しさがあります。それを和らげ、希望を持たせるために、「苦あれば楽あり」「嵐の後には凪がくる」と教えるのです。逆境にあるものには、「夜明け前がいつも一番暗い」といって慰め、「逆境のもたらす利益はすばらしい」といって勇気づけてくれます。また、苦難の処し方は苦難に出会ってから考えればよいので、取り越し苦労はいけません。「苦労に出会うまで苦労するな」です。
教訓58. 不幸の後には幸福が来る。
教訓59. 最悪のときに希望が兆し始める。
教訓60. 生きているかぎり希望はある。
教訓61. 将来について取り越し苦労をするな。
教訓62. 現在の不幸は将来の幸福をもたらす。
楽観をいましめる
しかし、あまりの楽観も禁物です。幸せの絶頂にあるものは、往々それが永久に続くものと錯覚しがちですが、「楽あれば苦あり」で、「凪の後には嵐が来る」ものです。いまの平穏を「嵐の前の静けさ」と考え、来るべき暴風雨に備えなければなりません。「転ばぬ先の杖」です。また、過大な期待も禁物です。楽天的な人はとかく希望が安直に実現するものと高をくくり、「捕らぬ狸の皮算用」をしがちです。悲観主義者が取り越し苦労をするように、楽観主義者はぬか喜びをしがちです。「卵がかえらないうちにヒヨコの数を数えるな」です。期待は失望のもとです。「期待しないものは幸い、失望することがないから」なのです。
教訓63. 人はいつ不幸になるかわからない。
教訓64. 将来に備えよ。
教訓65. ぬか喜びをするな。
教訓66. 希望や期待は人を惑わすものである。
3 極端と中庸
極端をいましめる
何ごとも中途半端が嫌いで、とことん追求する人がいます。理想に燃える人や、意志強固な人は、とくにその傾向があります。しかし、何ごとも「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、かえって悪い結果をもたらすことがあります。「ネズミを追い出すのに、家まで燃やしてはいけない」のです。「すべて極端は悪」と説くコトワザは、大きすぎ、多すぎ、賢すぎ、強すぎなどを戒めています。このようなコトワザの思想の裏には、秩序と調和にもとづく自然観・人間観があります。「自然は急激な変化を好まない」は、自然の秩序を教えるコトワザだし、「新しい葡萄酒を古い革袋へ入れるな」は、人間社会の調和を破るものへの戒めです。
教訓67. 自然は調和から成り立つ。
教訓68. 極端は悪である。
教訓69. 極端な手段を取るな。
中庸をすすめる
極端をいましめるコトワザは、当然、中庸をすすめます。英語に中庸をすすめるコトワザが断然多いのは、ひとつには、人間が限界を知らない欲望の奴隷であることに原因があります。人間は「持てばもつほど欲しくなる」ものですから、「どこかに一線を画すべし」となるのです。「パン半分でもないよりはまし」という、不足礼賛の態度で過ごせば、だれにも不満は起きません。理想は高すぎてはいけません。「無病息災」より「一病息災」の方が長生きします。そして「ローマではローマ人のするようにせよ」をモットーに、何ごとにも順応して生きれば、世の中に争いごとはなくなります。
教訓70. 人間の欲望には際限がない。
教訓71. 人間には節度が必要である。
教訓72. 理想もあまり高すぎてはいけない。
教訓73. もらった物には不平をいうな。
教訓74. 不十分でも無いよりはまし。
教訓75. 不十分なものの方が長持ちする。
教訓76. 無理をして不可能に挑むな。
教訓77. 何ごとにも順応して生きよ。
第3章 成功の条件
1 目的と方法
目的と方法について教える
コトワザは、何をなすべきかより、いかになすべきかに、強い関心を寄せます。それが、処世訓としてコトワザが多くの人に愛されてきたゆえんです。物事の成功の第一のカギは、目的達成の方法論にあります。「すべての道はローマに通ず」で、一つの目的に一つの方法しかないというわけではありませんが、しかし最もふさわしい方法は多くはないはずです。だれもが「弘法筆を選ばず」というわけにはいきません。「キツネにガチョウの番をさせる」愚をおかせば、失敗は必定です。目的を定めたからには、成功を目指させなければなりません。もっとも、「目的は手段を正当化する」といって、不正手段を美化してはなりません。
教訓78. 目的達成には手段や方法が大切である。
教訓79. 目的達成のための方法は一つではない。
教訓80. 目的のためにはどんな手段も許される
教訓81. 目的にふさわしい方法を用いよ。
教訓82. 名人は手段を選ばない。
一時に一事をすすめる
次に、成功のための方法論として、一度に多くのことをしてはいけないと教えます。現代人はとかく忙しいあまり、多くのことに手を出しすぎる傾向がありますが、「二兎を追う者は一兎をも得ず」のたとえ、失敗するケースが多いのです。失敗しないまでも、「多くのことに手を出すものは少ししか完成しない」のは事実です。とくに、矛盾することを二つ同時にはできないのが道理です。道理をわきまえない子供はよく、「ケーキを食べたら残っているはずはない」でしょ、と母親に叱られます。矛盾律の正しさは、精神的にも当てはまります。「神と財宝に兼ね仕えることあたわず」だし、「恋と知識は両立できない」のです。
教訓83. 別のことに心を奪われるな。
教訓84. 一時に一事をせよ。
教訓85. 矛盾する二つのことは同時にできない。
教訓86. 一つの仕事を二人以上でするな。
始めと終わりの大切さを教える
物事は始めが大事か、終わりが大事か、議論の分かれるところです。しかしコトワザは、状況に応じて、始めが大事ともいうし、終わりが大事ともいいます。その矛盾を意に介さないところが、コトワザの知恵の深さです。始めを重視するものに、「始めよければ終わりよし」「最初の一撃で戦いの半分は終わる」などがあります。それに対して終わりを大切にするものに、「終わりよければすべてよし」「最後に笑うものの笑いが一番よい」などがあります。状況に応じて使い分けるべきでしょう。仕事に着手したときは始めが大事だと言い聞かせ、仕事が完成に近づいたときは終わりが大事だといって戒めるのです。
教訓87. 物事は始めが大事である。
教訓88. 物事は終わりが大事である。
2 意欲と願望
意欲の大切さを教える
事の成否を決めるのは、何かをやり遂げようとする意欲です。やる気があれば大抵のことはできるもの、「進んでやれば何でも簡単」なのです。しかし、近頃の若者にはやる気が感じられないとよく耳にします。そんな若者には、やる気を刺激するための「しごき」が必要かもしれません。踏みにじられれば「一寸の虫にも五分の魂」のたとえ、「毛虫でも向かってくる」のです。いっそ仕事を与えずに、干すのも一策です。「困窮は勤勉の母」「願望は遅延に育てられる」からです。反対に、やる気でいるものには、あれこれいう必要はありません。「志願兵一人は徴用兵二人分働く」のです。「働く気でいる馬に拍車をかけるな」です。
教訓89. やる気があれば何でも簡単にできる。
教訓90. 困窮や不満が意欲を生み出す。
教訓91. 意欲を大切にすべし。
教訓92. 理想は高く、求める気持ちは強く。
意欲や願望の不利について教える
しかし意欲だけでは、ことは成就しません。「願望だけでは麻袋はいっぱいにならない」ので、必要なのは働いて麻袋をいっぱいにする努力なのです。日本のコトワザには「祈るより稼げ」があります。「地獄への道は善意で舗装されている」というコトワザは、善なる意志があっても人は悪行を重ねるものだということのたとえです。それどころか、意欲や願望そのものが悪い場合も多いのです。「我が儘者は自分の願望のままに動く」「悪魔に駆り立てられるとせずにはいられない」というのは、悪を志向する願望であって、やがて「必要の前に法律なし」と、法さえ犯しかねません。「願望は悲哀の原因」となってはなりません。
教訓93. 求める心だけではことは成就しない。
教訓94. 意欲や願望がすべてよいとはかぎらない。
教訓95. 願望が確信や理屈を生みだす。
3 勇気と慎重
勇敢さをすすめる
成功するためには、これまで述べたように方法論や意欲も大切ですが、それにもまして必要なものがあります。それは勇気です。勇気は成功の第一の要件です。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」のたとえ、危険を恐れては何事も成就できません。いったん決心したからには、思い切って断行するのみです。「牛は角で掴め」です。勇気のないもの、「ためらうものは失敗する」のです。「イラクサを優しく扱えばたちまち刺される」ともいいます。断行すれば必ず「幸運は勇者に味方する」というのが、コトワザの教えです。しかも、「危険が大きければ名誉も大きい」というように、危険を賭しての成功は、人の称賛の的になります。
教訓96. 勇気をもって事に当たれ。
慎重さをすすめる
しかし、「よく飛ぶためにはまず後ろへ引け」ということも忘れてはなりません。行動を起こす前には、まず引いて力を蓄えることも必要です。そして、周到な準備や情勢判断をしなければなりません。勇気とは、蛮勇や無鉄砲ではなく、慎重さと思慮深さなのです。「急いては事を仕損ずる」「急がば回れ」です。だから、猪突猛進だけではなく、逃げなければならない場合もあります。逃げるにも、勇気が必要なのです。「勇者と見なされた者の中には逃げる勇気のなかった者もいる」のです。焦らず、ゆっくりが勝利への道です。結婚の場合も同じで、「急いで結婚、ゆっくり後悔」ということにならないよう、用心すべきです。
教訓97. しりぞくのも勇気のうち。
教訓98. あせらずゆっくりが勝利への道。
教訓99. 人の説得は柔らかく、また間接的に。
教訓100. 近道よりも回り道を。
4 忍耐と努力
継続と忍耐をすすめる
日本では「継続は力なり」「塵も積もれば山となる」などといい、継続の力を教えます。英語でも「小銭も蓄えれば財布が一杯になる」「小さな打撃も大きなカシを倒す」など、微力なものも継続すれば大きな力になり、成功に導くといいます。そんなことは判っているのですが、「三日坊主」という言葉からも知られるように、継続することはまことに大変なことです。だから、コトワザはもう一つの条件として、忍耐を持ち出します。「忍耐は美徳」「気に入らなくても我慢せよ」と辛抱することを教え、じっと待つことを「待てば海路の日和あり」と推奨します。いずれにしても「ローマは一日にして成らず」です。
教訓101. どんな仕事でも最後までやり抜け。
教訓102. 慣れれば出来るようになる。
教訓103. 少しずつでも継続してやれ。
教訓104. 忍耐と我慢がことを成就させる。
努力の必要を教える
継続にしろ、忍耐にしろ、帰するところは努力という二文字です。結局、目的達成のための最大の条件は、努力であり、それを支える資質は勤勉なのです。努力と勤勉なくしては何事もなしえません。「時間の砂浜に残る足跡は座っていては出来ない」し、「十字架なくしては王冠はなし」です。努力さえすれば、道は自ずと開けるものです。「意志のあるところには方法がある」といいます。そして何よりも嬉しいことに、天の助けがあります。「天は自ら助くるものを助く」なのです。こうして見てくると、方法論を説くコトワザは、最後には、方法論を越えた努力至上主義をたたえるコトワザに行き着くことになるようです。
教訓105. 目的を実現させるのは勤勉と努力。
教訓106. 苦難を越えて栄光をつかめ。
5 時間と機会
時間について教える
成功のためには、時間の使い方や機会の利用の仕方も大きな意味をもちます。「芸術は長く人生は短し」で、「光陰矢の如し」ですから、「時は金なり」なのです。しかし、使った時間は金銭のように取り戻すことはできません。「時計は逆には戻せない」のです。だからこそ、「最も忙しい人が最も暇を見つける」ように、時間の有効利用が必要です。そして「不精者は一番暇がない」のも事実です。時間は不思議なもので、すべて同じように過ぎ去るのではありません。コトワザは早くから時間の相対性に気づいていました。「楽しい時間はすぐに過ぎ去る」かと思えば、「待つ身は長い」し、「見つめる鍋は煮え立たない」のです。
教訓107. 時間は飛ぶように過ぎる。
教訓108. 貴重な時間を有効に利用すべし。
教訓109. 時間の経過は相対的である。
教訓110. 過去の話をむし返すな。
教訓111. 時間は過去を忘れさせてくれる。
機会について教える
人の運命を決めるのは、ほんの一瞬の機会であることが多いもので、「何ごとにも時期がある」のです。しかし、ほとんどのコトワザは遅すぎを戒めるものばかりです。早すぎはやり直しがききますが、遅過ぎはそれができないからです。「一度逃がした機会は二度と取り戻せない」のです。だから「後の祭り」にならないように、「鉄は熱いうちに打て」だし、「今日できることは明日まで延ばすな」です。しかし、不幸にして時機を逸したものもいるのです。そのような人を見捨てることはできません。そこでコトワザは「ドアが一つ閉まるともう一つが開く」「海にはいつもの魚に劣らずよい魚がいる」といって、激励するのです。
教訓112. 何ごとをなすにも潮時がある。
教訓113. 一度逃がした好機は取りもどせない。
教訓114. 好機を逸するな。
教訓115. 何ごとも早く始めるのがよい。
教訓116. 思い立ったが吉日。
教訓117. 後の祭りになるな。
教訓118. 後悔しても無駄である。
教訓119. 機会を逃しても、次の機会がある。
6 安全と危険
安全確保の方法について教える
成功のためには、危険を避け、安全を確保することが大切です。まず、自分の好奇心には用心しなければなりません。「好奇心は猫を殺す」「好奇心が強すぎると楽園を失う」からです。ましてや、危険を呼びこむような愚は避けなければなりません。「眠っているライオンを起こすな」です。そのほか、「急がば回れ」で、近道は思わぬ障害に出会うことがあるし、「高木風に折らる」といって、高い場所もあぶない。やはり、多くの人と歩調を合わせ、中道を歩むのが一番安全のようです。「多数の中には安全がある」のです。そういえば、北野たけしのギャグに、「赤信号みんなで渡ればこわくない」というのがありました。
教訓120. 好奇心は大敵である。
教訓121. 危険に近づかないのが一番安全。
教訓122. 火遊びや先のとがったものは危険。
教訓123. 高い位置は危険である。
教訓124. 近道は危険、中道を歩め。
危険からの脱出策を教える
しかし危険は、いくら避けようと用心しても、出会うものです。だから、危険に出会ったときの脱出策を前もって講じておくべきです。まず、逃げ道を多くし、危険を分散しておくことが、被害を最小にする工夫だとコトワザはいいます。「逃げ穴が一つしかないネズミはすぐにつかまる」「卵を全部一つのかごに入れるな」です。次に、危険が太刀打ちできないほどのものであるときは、「逃げるが勝ち」です。「真っ先に逃げろ、逃げ遅れたものは悪魔に食われろ」です。逃げる先を選んでいる余裕はありません。「嵐のときはどんな港でもよい」からです。さらにコトワザは、「自己保存が自然の第一法則」とまで言い切ります。
教訓125. 逃げ道を多くし、危険を分散せよ。
教訓126. 逃げるときは真っ先に逃げろ。
教訓127. 避難場所を選んでいる暇はない。
第4章 人間の社会
1 交友と友人
交友と団結について教える
性格・気質・趣味などを同じくするものは、集まってグループを作ります。これを「同じ羽の鳥は群をなす」「類は友を呼ぶ」といいます。最初から同じものが集まる場合もあるし、集まった後で影響し合って似てくる場合もあります。だから、「人は交わる友によって知られる」のです。そして仲間からはよきにつけ、悪しきにつけ、影響を受けますが、コトワザの世界では悪い影響の方が多いようです。「朱に交われば赤くなる」し、「狼と付き合うものは吠えることを覚える」のです。それにしても、仲間同士が団結すると、強い力となります。だから兵法家は、古来、「分裂させて征服せよ」の戦術を用いてきました。
教訓128. 同じもの同士は自然に集まるもの。
教訓129. 人は仲間から影響を受ける。
教訓130. 悪い仲間からは悪い影響を受ける。
教訓131. 孤高を愛する賢者は悪に染まらない。
教訓132. 社会的な活動には最低二人が必要。
教訓133. 多人数のグループはまとまりにくい。
教訓134. 団結すると強いが、分裂すると弱い。
教訓135. 集団をまとめる知恵はいろいろある。
友人と友情について教える
コトワザは友情の一面の本質を見抜いていて、ズバリ「成功すれば友人が増える」が「貧困は友情を断ち切る」といっています。それは、友情の根底に金銭があることを暗示しています。だから、友人間では、金銭の「借り手にも貸し手にもなるな」となります。しかしもう一面では、金銭を離れた友情があるのも事実です。「まさかの時の友こそ真の友」であり、そのような友だち同士では、「分かち合えば喜びは倍加し、悲しみは半減する」のです。友だちは多くなくていいので、やはり気心の知れた長い付き合いのものが一番いいのです。「書物と友人はよいものを少し持つのがいい」し、「古い友と古い酒が一番いい」のです。
教訓136. 友人は成功すると増え、失敗すると減る。
教訓137. 友情を壊すのは金銭である。
教訓138. 友人を過信するな。
教訓139. 友人は悲しみを半減し、喜びを倍加する。
教訓140. 困ったとき助けてくれるのが真の友人。
2 指導と服従
指導者について教える
古来、人間は集団をなして生きてきました。集団が生き延びるためには、力をもった指導者が必要です。指導者が不在だとグループは結束を欠きます。「猫がいないとネズミがあばれる」のです。しかし、あまりに指導力が強すぎると「長いものには巻かれろ」の風潮がはびこり、「絶対的権力は絶対に腐敗する」ことになります。権力は分散しなければなりません。一つには、部下に仕事を任せることです。「犬を飼いながらなぜ自分で吠えるのか」というわけです。もう一つ大事なことは、われもわれもとみな指導者になってはいけないということです。指導者は一人でよい。「料理人が多すぎるとスープの味がだめになる」のです。
教訓141. 集団には指導者が必要である。
教訓142. 指導者は一人がよい。
教訓143. 指導者にはその資格が必要である。
教訓144. 指導者の絶対的権力は危険である。
人の上に立つことをすすめる
「長」と名の付くものなら「盲腸にでもなりたがる奴」という、揶揄の言葉があります。人間、どんな小さな組織でもいいからトップに立ちたい、と思うのが人情でしょうか。現代風にいうならば、一流大学卒で大会社に入ってうだつが上がらないよりは、高卒でも小さな会社を興して社長におさまった方がよい、という考え方です。大集団の下っ端より小集団の長のほうがまし、というのです。このコトワザが多くあります。日本の「鶏口となるも牛後となるなかれ」に当たる英語のコトワザとして、「ライオンのしっぽになるより犬の頭になった方がよい」「ローマで二番でいるより村で一番でいる方がよい」など、多くあります。
教訓145. 大集団の下っ端より小集団の長がよい。
脇役でいることをすすめる
しかし逆に、小さな組織にせよ、長になってあくせく働くより、大きな組織の中で責任ももたず、平穏に過ごした方がよい、とする考え方もあります。「寄らば大樹の陰」といいますか、危険な野心や冒険心を捨て、安定した生活を確保したい、というものです。「ロバの頭になるより馬の尻尾になれ」「キツネの頭になるよりライオンのしっぽになれ」などがあります。もっとも、この脇役でいることをすすめるコトワザには、もっと積極的な意味もあります。それは、服従の経験は次に指導者になったとき役立つ、というもので、「主人たるものは他人に仕えなければならない」「服従することで支配することを学べ」などがあります。
教訓146. 小集団の長より大集団の下っ端がよい。
教訓147. よき服従者がよき指導者となる。
3 金銭と貧富
金の性質について教える
庶民の知恵としてのコトワザの教えは、金はすぐに無くなるものというもので、「金は丸いので転がり去る」「金はポケットに焼け穴をつくる」などがあります。それに、「金をつくるには金が必要」だというように、元金が貯まらなければ金の増やしようもありません。しかし、一度金が貯まりはじめると、「金が金を生む」のでしょうか、ますます富むことになり、貧富の差が拡大します。貧富を問わずだれにも当てはまるコトワザに、「不当に得たものは不当に使われる」や、「簡単に手に入るものはすぐに出ていく」などがあります。金はやはり、正しい手段で、こつこつ苦労して稼ぐもの、ということになりそうです。
教訓148. 金は金持ちにたまり貧乏人にたまらない。
教訓149. 悪銭は身につかない。
金をもつことの利益を教える
やはり、金を持つ利益は大きいようです。「金持ちの冗談はいつも面白い」といって、取り巻きは追従笑いをしてくれます。人は権力者に弱いもので、さなきだに「だれでも殿様が好き」なところへ、金があれば鬼に金棒、大抵の人をなびかせます。「財布が満杯のものは友達に不足せず」です。しかも、「地獄の沙汰も金次第」で、金があればできないことはまずありません。「黄金の鍵はどんな扉でも開ける」といいます。法律さえ、「金持ちの法律と貧乏人の法律は別」といって、金持ちを優遇するようです。もっとも、消費社会では、たとえ金持ちでなくても、金を払う方が断然強く、「消費者は常に正しい」となります。
教訓150. 金持ちにはだれもがへつらう。
教訓151. 金がものをいう世の中である。
金をもっても利益にならないと教える
しかし、金をもつことに常にメリットがあるとは限りません。「患者の財布が病気を長引かせる」のように、金持ちが悪徳医者の食い物にされ、いつまでも病気が治らないこともあります。これなどは、金銭の人間に対する復讐かもしれません。さらに、人間は金を自由に使っていると思っていますが、気づいてみれば金に使われ、金の奴隷になっていることがあります。金は使ってもよいが、使われてはいけません。「金は召し使いとしてはよいが、主人としては悪い」といいます。「金と汚物は道連れ」ですから、金に使われていると、人間も次第に汚染されていきます。「金銭は諸悪の根元」と極言するコトワザもあります。
教訓152. 金銭は諸悪の元凶である。
教訓153. 金銭より大切なものがある。
生活の糧の大切さを教える
確かに、金銭は諸悪の元凶ですが、生活のためにはある程度の蓄えがなければならないのも事実です。「恒産無き者は恒心無し」というように、「空の袋はまっすぐには立たない」のです。金銭や食料などの物質的基盤がなくなると、人間は肉体も病み、精神も不健全になります。家族の愛情さえ失われます。「貧乏神が戸口から入ると愛情は窓から逃げ出す」といいます。早い話が、空腹になると人はよくいさかいを起こしますが、「食卓を広げれば争いは止む」ものです。「パンは命の支え」です。それだけに、自分の生計を支えてくれる拠り所を大切にしなければなりません。「自分を食べさせてくれる人の手を噛むな」です。
教訓154. 金銭は心身の健康を保証するもの。
教訓155. パンは生きるために一番大切なもの。
教訓156. 生計のよりどころを大切にせよ。
節約をすすめ借財をいましめる
日本を始め欧米先進国は大戦後からつい最近まで、消費は美徳とばかり、生産物の浪費を繰り返してきました。その結果が、地球環境の破壊をもたらし、あらためて節約の尊さに気づかされました。しかし、コトワザの世界では、人々は昔から無駄遣いや浪費をいましめ、将来に向けて蓄えることをすすめてきました。いまこそ、われわれは古人の知恵に学ぶべきときです。「物は7年取っておけば使い道が出てくる」「浪費しなければ、窮乏することもない」などといって節約をすすめ、「借金がなければ危険なし」「借り手にも貸し手にもなるな」といって、分不相応な借金生活を戒めています。
教訓157. 将来に備えて節約し、できるだけ蓄えよ
教訓158. 金銭の貸借はするな。
4 悪と悪人
悪と悪人について教える
世の中には、悪人もいれば善人もいるはずですが、コトワザの世界では、善人は少なく、悪人がはびこっています。「よい人間は見つけ難い」が、「雑草はたちまちはびこる」し、「悪貨は良貨を駆逐する」といいます。なぜでしょうか。それは、「憎まれっ子世にはばかる」のたとえで、悪人は悪運が強く、「悪魔の子供は悪魔の幸運をもつ」し、「こそ泥は捕まるが大盗賊は捕まらない」からです。そのうえ、一度悪に染まったものは「毒を喰らわば皿まで」とばかり、悪はエスカレートしていきます。しかし、結局、悪は露見し、犯罪は得にはなりません。「殺人は露見するもの」「犯罪はもうからないもの」と知るべきです。
教訓159. 悪は善を滅ぼして蔓延するもの。
教訓160. 悪人は悪運が強い。
教訓161. 善にカモフラージュされた悪がある。
教訓162. 悪はエスカレートする。
教訓163. 悪に悪を重ねても、正しくならない。
教訓164. 悪は露見し、悪人の心は安まらない。
悪を防ぐ奇策を教える
コトワザは、悪を防ぐ方法をいくつか用意しています。一見、意表をつく奇策のように思えますが、いずれにも深い真理があります。まず「盗む機会があるから盗人が生まれる」といい、悪を撲滅するにはその機会を減らすのではなく、逆に機会をあたえよといいます。そうすれば、犯人逮捕の機会も増えるというものです。「盗人にロープを十分に与えよ、そうすれば自分を縛る」のです。そして、悪人を捕らえるには、自分自身が悪人でなければならないといいます。「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」で、悪人が一番悪人を知っているからです。「泥棒に泥棒を捕らえさせよ」です。「老練な密猟者が最善の監視人になる」からです。
教訓165. 悪人にさらなる悪の機会を与えよ。
教訓166. 悪を知る悪人に悪を退治させよ。
教訓167. 強者には強者をあたらせよ。
第5章 人間の文化
1 知識と経験
無知の利点について教える
現代の不幸は、ものを知りすぎることだといわれます。庶民の知恵としてのコトワザは、無知を礼賛してきました。「知らぬが仏」で「無知は至福」だといい、「知らないのが幸福なら、知ることは愚か」だともいいます。「自分の知らないことでは心は痛まない」からです。たとえば、結婚生活でも同じです。「結婚前は目を十分開け、結婚後は目を半分閉じよ」は、媒酌人の挨拶によく引用されるコトワザですが、相手を知りすぎては不幸の始まりになります。それに、知識と真実はかならずしも一致するわけではありません。無知なるものがかえって真実を語ることがあります。「子供と愚者は本当のことをいう」からです。
教訓168. 無知は幸福である。
教訓169. 知らないことではだれも傷つかない。
教訓170. 無知なるものがかえって真実を語る。
教訓171. 才能あるものは早死にする。
知識と経験の必要性を教える
しかし、だからといって、知識は無用の長物ではありません。それどころか、この競争社会を生き抜くための強力な武器になります。「知識は力なり」とも「知恵は力にまさる」ともいいます。いずれにしても「賢者は武器に不足しない」のです。そして、武器としての知識はいい加減なものであってはなりません。「生兵法は怪我のもと」「わずかばかりの学問はかえって危険」なのです。だから、賢者は深くものを知れば知るほど慎重になりますが、知恵のないものは恐れ知らずの蛮勇をふるいます。次のコトワザがあります。「知識のない熱意は放れ駒も同然」であり、「天使が踏み込むのを恐れる場所へ愚者は飛び込む」のです。
教訓172. 知識は力である。
教訓173. 十分な知識と経験がないと危険である。
教訓174. 賢者は一を聞いて十を悟る
知恵は経験から得られることを教える
それでは、人は知識や知恵をどのようにして獲得するのでしょうか。コトワザによれば、それは経験からだといいます。むかし、旅の経験は情報源の最たるものでした。「広く旅する人は物知り」「旅は知性を広げる」などがあります。むろん旅だけでなく、日常の生活がすべて経験です。「見ることは信ずることである」というように、人間は経験から学ぶのです。むろん、他人の経験からも学び、「他人の愚行から知恵を学べ」といいます。いずれにしても、「経験はよき教師」「経験は知恵の父」なのです。また、経験は過去の蓄積ですから、経験から学ぶことは過去から学ぶことでもあります。「今日という日は昨日の弟子」です。
教訓175. 旅の経験は知識を豊かにする。
教訓176. 経験はよき教師である。
教訓177. 年齢は知恵である。
若者の未経験について教える
経験から知恵が生まれるとすれば、老人が知恵者であり、若者が未熟者であるのは、当然です。若者に老人の知恵は期待できないとして、「若者の肩に老人の頭を乗せることはできない」といいます。未熟だから、「若者は羽目を外さないと承知しない」ということになります。しかし、そんな若者でも、経験を積んで立派な人間になります。「いたずら子猫も真面目な親猫になる」から、心配無用です。むしろ、幼い頃、模範少年であったものが成人して堕落する例も多いのです。「若聖人の老悪魔」「5歳で大人並みの子は15歳では愚か者」なのです。日本でも、「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」といいます。
教訓178. 若年は未熟である。
教訓179. 若者は羽目を外すものである。
教訓180. 腕白少年の方が立派に成長するもの。
学習と年齢の関係について教える
知恵ある老人が、異口同音に嘆くことがあります。それは、記憶力の減退です。確かに、「老人力」が増える分、物覚えは悪くなるようですが、しかし学ぶ能力は記憶力だけではありません。日本には「六十の手習い」「八十の手習い」というたとえがあり、英語にも「学ぶのに年齢はない」「学ぶのに遅すぎることはない」といって、晩学をすすめています。ということは、晩学を志す人が実際にいたことを物語っているので、老境に入った人も、勇気づけられます。しかし一方、日英とも「老い木は曲がらぬ」「老いた犬に新しい芸を教えることはできない」といって、老人の頑迷固ろうを指摘するコトワザもあるから、用心です。
教訓181. 歳をとっても学ぶ力は衰えない。
教訓182. 歳をとると学ぶ力は衰える。
経験と学問のいずれが大切かを教える
しかし、経験的知恵は、体系化された学問と対決せざるを得ません。そこで、経験か学問か、という対立の構図が生まれてきます。コトワザはまず、「1オンスの母の知恵は1ポンドの学識に匹敵する」として、父祖伝来の知恵を重要視します。経験は実践に裏付けされているが故に、凡百の机上の空論に勝るのです。「学問なき経験は経験なき学問にまさる」のです。しかし、経験には試行錯誤がつきものです。だから「経験は愚か者の教師」といえます。賢者は失敗を経験せずに学びます。「賢者は他人の過ちから学び、愚者は自分の過ちから学ぶ」のです。やはり、人は経験からも、学問からも学ぶのがよい、ということです。
教訓183. 学問より経験の方が重い。
教訓184. 経験より学問の方がまさる。
知恵と学問について教える
知恵は、実生活の場で大いに利用すべきです。それも、「三人寄れば文殊の知恵」というように、多くの人の知恵を集めるのがよいのです。賢者の知恵を借りれば、愚者も賢者以上にものが見えます。「巨人に乗ったこびとの方が巨人より遠くまで見える」のです。また、コトワザは、知識・技能の獲得には、簡便な方法はなく、学問には苦労がつきものといい、「学問に王道なし」と教えます。とかく人は安易な道を走りがちですが、「すぐ覚えたことはすぐ忘れる」のです。ゆっくり時間をかけ、「走る前に歩くことを習え」の教えにのっとり、一歩一歩、着実に段階を踏んで努力することが、最善の道のようです。
教訓185. 知恵は集めて利用すべし。
教訓186. 学問に王道はない。
2 言葉と世間
言葉のもつ力について教える
昔から、言葉は不思議な力をもつものとして、恐れられてきました。日本では「噂をすれば影が差す」といい、英語圏では「悪魔の話をすれば悪魔が現れる」などといいます。さらに、言葉には、人を斬り、世の中を動かす力があるといいます。「舌は鋼鉄ではないがよく切れる」「ペンは剣よりも強し」などがあります。だから、人は世間の評判を気にし、「グランディ夫人は何というか」と恐れますが、コトワザはそれを評して「人はみな世論の奴隷」といいます。この意味の世論はあまりよいものといえませんが、しかしもう一方では、「民の声は神の声」であるという、世論の正しさを称揚する有名なコトワザもあります。
教訓187. 噂をするとその人が現れる。
教訓188. 言葉は人を斬り世の中を動かす力をもつ。
真実と虚偽について教える
言葉には、真実を伝えるものと虚偽を伝えるものとがありますが、強いのはやはり真実の言葉の方です。「真実は強くすべてに勝つ」「真実を語れば悪魔も恥じる」といいます。真実の言葉は虚飾やレトリックを必要としません。それだけに、人を傷つけがちです。「非難の言葉の痛みはそれの真実性を表す」のです。それゆえ、「真実は憎悪を生む」ことがあります。だから、世の中の和を重んじるならば「真実をすべて語るべきではない」のです。だからといって、嘘を言うのがよいわけではありません。「一度嘘をつくと、いつまでも疑われる」し、「嘘つきは本当のことをいっても信じてもらえない」からです。
教訓189. 真実も強い力をもち、人を傷つける。
教訓190. 真実はなかなか語れないものである。
教訓191. 追求しすぎると人は嘘をいう。
教訓192. 嘘つきには記憶力が必要である。
教訓193. 嘘つきが真実を語ってもだれも信じない。
言葉の用い方を教える
コトワザは「口から出た言葉は他人のもの」「一度口からでた言葉は呼び戻せない」として、言葉の使い方には慎重であることを呼びかけます。しかし、多くの人が不用意に言葉を使い、失敗をします。「口はわざわいの元」「鳥は足で捕らえられ、人は舌で捕らえられる」のです。もっとも、あまり慎重になりすぎて寡黙になってはいけません。「鳴かぬ犬は危険」「黙り者と静かな流れには気をつけろ」と、不信の目で見られるからです。やはり、「歯に衣着せるな」(日)「鋤は鋤と呼べ」(英)のように、心の中は率直に、口に出した方がよいといえます。「きしむ車輪は油をさしてもらえる」からです。
教訓194. 言葉は人の本性を表す。
教訓195. 言葉を取り消すことはできない。
教訓196. 心の中は率直に表現すべし。
教訓197. 無口な人間には気をつけろ。
教訓198. 言葉の多いものは災いを受ける。
世間の噂について教える
噂話や悪口の主役といえば、むかしは井戸端会議のおかみさんでしたが、いまは赤提灯やスナックにたむろするサラリーマンやOLたちです。でも「壁に耳あり」です。産業スパイはもちろん、気のおけない同僚や部下にも警戒が必要です。重要な秘密にしろ、ささいな噂にしろ、一度人の口の端に上れば、「悪事千里を走る」のたとえ、アッという間に広まります。「だれでも噂を流すことはできるが、噂を止めることはできない」のです。悪い噂を流して、失脚させようとたくらむ輩が多い世の中です。「名声は得るに難く、失うに易し」で、一度傷ついた名声は致命傷となりますから、噂の的にならぬよう、気をつけましょう。
教訓199. 世間は聞き耳を立てている。
教訓200. 人の口に戸は立てられない。
教訓201. 悪い噂を流せば、相手は致命傷を受ける
教訓202. 死んだものを悪くいうな。
忠告について教える
忠告というものは、後になって有り難いと思うことはあっても、言われたときは面白くないのが相場です。「良薬は口に苦し」「忠言耳に逆らう」ものです。とくに、求めないのに与えられる忠告はなおさらです。ですから、「忠告と塩は求められるまで与えるな」ということになりそうです。それに、適切な忠告や助言はなかなかできないものです。いい加減な忠告を聞き入れたために、被害を被ることだってあるのです。「悪い助言はすべてを台なしにする」といいます。では、良い助言とはどんなものでしょうか。コトワザによれば、助言は自分自身で一晩考えて見つけるもの、「最も良い助言は枕の上に見つかる」といいます。
教訓203. 忠告は与え方が難しいから、つつしめ。
教訓204. 忠告は耳に痛いが、役立つものである。
教訓205. 最善の忠告は自分で自分に与えるもの。
3 言葉と行動
沈黙の言語について教える
意思伝達は言葉によって行いますが、しかし言葉がすべてではありません。言葉以外にも、表現手段はあります。目の動きや顔の表情など、すべて心のうちを伝えます。「目は心の窓」「うなずきは目配せと同じ」などがあります。さらに、黙っていることも意思表示の一つで、「返事をしないのも返事の一つ」といいます。そして、沈黙の返事はいろいろに解釈されます。「沈黙は承諾のしるし」「子供が黙っているときは悪いことをしたとき」などにです。しかし沈黙には、もっと積極的な意味もあります。真の雄弁家は「黙ることを知らないものは話し上手ではない」と、沈黙の術を心得ています。やはり「沈黙は金」なのです。
教訓206. 言葉以外にも表現手段はある。
教訓207. 沈黙にも意味がある。
教訓208. 雄弁家は沈黙の術を心得る。
教訓209. 寡黙は多弁にまさる。
言葉が無力であることを教える
行動と比較すると、言葉は無力なものです。行動の裏付けがあって、言葉は初めて有効になるのですから、行動の伴わない言葉は無益なものです。「実益のないほめ言葉は鍋の足しにならない」とも「巧言を弄するものは空のスプーンで食べさせるようなもの」ともいいます。そして、言葉だけでは実益がないかわりに、実害もまたあまりないので、安心といえば安心です。「厳しい言葉も骨は傷つけない」「棒や石は骨を折るかもしれないが、言葉は少しも傷つけない」といいます。言葉だけで手出しをしなければ、相手は傷つくことはないから、相手への非難・中傷もそれほど気にしなくてもよいことになります。
教訓210. 実行の伴わない言葉は無益。
教訓211. 言葉は無力で、実害もない。
言葉と行動の関係について教える
言葉と行動の関係についていえば、言葉の多いものは行動が少ないと、コトワザはいいます。「空の容器が一番大きな音を立てる」し、「おしゃべり屋は手抜き屋である」のです。それだけではありません。行動の少ない人間が何かのはずみで行動を起こすと、ろくなことをしないようです。「サタンは暇な人間に仕事をくれる
」とか、「小人閑居して不善を為す」とかいいます。だから、人間はやはり平素から言葉を実践で裏付けすることが大切です。それは、「言うは易く行うは難し」かもしれませんが、だからといって「言うことと行うことは別」という責任逃れは許されません。「人に説くことは自分でも実行せよ」なのです。
教訓212. おしゃべり人間は仕事をしない。
教訓213. 何もしないことは悪である。
教訓214. 実行の伴わない批判や説教は無意味。
教訓215. 言葉と行動は一致しないもの。
教訓216. 言葉より行動が大切である。
原因と結果について教える
どんな結果にも、かならず原因があります。「蒔かぬ種は生えぬ」のたとえ「無からは何も生じない」のです。人の噂にも、それなりの原因があるものです。「火の無い所に煙は立たぬ」わけです。そしてどんな原因も、かならず一定の結果を伴います。「くだらない質問をすれば、くだらない答えしか返らない」し、パソコンの入力などで「ガラクタを入れればガラクタが出てくる」のです。だから、ものは結果を見れば、その由来を知ることが出来ます。「木はその実でわかる」し、人の値打ちもその仕事でわかります。「ものの価値はそれがもたらすもので決まる」というのが、コトワザの教えです。
教訓217. 原因のない結果はない。
教訓218. 原因が悪ければ、結果も悪い。
教訓219. ものの価値は結果で判断される。
因果応報について教える
原因と結果の関係を、過去の言動と現在の幸不幸の関係に当てはめるとき、因果応報の思想が生まれます。善い行いには良い報いがあるとして「よき種を蒔けばよき作物ができる」などといいますが、圧倒的に多いのは、悪い言動には悪い報いがあるというものです。「天に向かって唾する者は顔に唾を受ける」「災いを仕掛けるものは災いに遭う」など、「自業自得」を教えるコトワザが夥しくあります。だから、「ガラスの家に住むものは石を投げるな」のたとえ、非をもつものは人を非難せず、敵といえども許し、「己の欲する所を人に施せ」ば、やがて自分の言動の結果が自分自身に返り、平和と幸福が約束されるのです。
教訓220. 言動にはそれ相応の報いがある。
教訓221. よい言動にはよい報いがある。
教訓222. 悪い言動には悪い報いがある。
教訓223. 人を非難・攻撃するな。
教訓224. 悪を許さず、報復せよ。
教訓225. 敵を許し、過去を水に流せ。
教訓226. 許すことも一種の報復である。
教訓227. 自分にして欲しいことを人にもせよ。
第6章 人間の内面
1 長所と短所
長所と才能について教える
「人間のしたことは人間に出来ることである」といいますが、誰かのしたことは自分にだって出来ないはずはないのです。人は誰しも、一定の能力はあるし、それなりの長所をもっています。そして、長所や才能は不必要に隠すものではありません。「日陰の日時計が何の役に立つか」がいうように、才能は人に示して役立てなくてはなりません。しかし、必要以上に誇示することはいけません。「自画自賛は推薦にはならない」のです。才能は誇示しなくても自ずと顕れ、評価されるべきものです。自己顕示は傲慢のそしりを受け、足を引っ張られるだけです。「高慢には失脚がつきもの」「奢れる者久しからず」なのです。
教訓228. だれにでも長所や才能はある。
教訓229. 長所や才能は人に示して役立てよ。
教訓230. 才能の誇示や高慢は失脚をもたらす。
短所と過失について教える
自分の欠点や過失を知ることは大切ですが、気にしすぎてはいけません。「鼻の大きいものはだれもが鼻の噂をしていると思う」のですが、他人はそれほど気にしないものです。それに、「ホーマーでさえときには居眠りをする」ように、欠点はだれにでもあるし、人は何かをするかぎり過ちを犯すものです。「失敗をしないものは何もしないもの」のことです。だから、卑下する必要はありません。無用の卑下や謙遜は、他人に乗ぜられるだけです。「自分をネズミにするな、さもないと猫に食われる」という警告があります。人に乗ぜられないためにも、短所や過失はすぐ改めることです。「改めるに遅すぎることはない」のです。
教訓231. 短所や過失をもつものはおびえる。
教訓232. 短所や過失はだれにでもあるもの。
教訓233. 過失は率直に認め、改めよ。
教訓234. 自己卑下や卑屈な態度を取るな。
教訓235. 自分の弱点や秘密は他人に漏らすな。
2 遺伝と環境
性質の不変性について教える
「男の子は男の子」とか「女が三人寄ると市ができる」というように、少年には乱暴な性癖があるし、女性にはおしゃべりの傾向があります。「豹はその斑点を変えることができない」といいますが、人間も、受け継いだ性質を変えることはなかなかできません。「人間の性格を変えるのは、川や山の形を変えるより難しい」といいます。また、親というものは、子どもに自分の果たせなかった夢を託するものですが、たいていは期待過剰に終わり、失敗するものです。だから、受け継いだ資質以上を期待する愚をいましめて、「ワシはハトを生まない」とか「瓜の蔓には茄子は生らぬ」とかの教えがあります。
教訓236. 若い男には若い男の特性がある。
教訓237. 女には女の特性がある。
教訓238. 親から受け継いだ性質は変わらない
教訓239. 一度身についた習性は直らない。
教訓240. 受け継いだ資質以上を期待するな。
環境の重要性について教える
たしかに、遺伝の力は大きいのですが、しかし「氏より育ち」「生まれも大事だが育ちの方がさらに大事」というように、後天的なしつけや教育の重要性を説くコトワザも多くあります。とくに、子どものころに養った習慣は、もって生まれた性質と同じように一生身について離れません。「古い習慣はなかなか改まらない」「習慣は第二の天性」などといいます。だから、子どものうちからよい習慣を養うようしつけるべきです。「鞭を惜しめば子供はだめになる」「可愛い子には旅をさせよ」でなければなりません。若いうちに怠けていては、老いてから苦労するだけです。「のらくら青年、食いつめ老人」になってはいけません。
教訓241. 子が親に似るとはかぎらない。
教訓242. 生まれより育ちが大切。
教訓243. 身についた習慣の力は強い。
教訓244. 子供のうちからよい習慣を養え。
教訓245. 怠ける若者は老いてから後悔する。
教訓246. 自己形成は長い変革の道である。
3 人倫と心情
正直について教える
人間は徳をもって生きれば、心身ともに安定し、繁栄を享受するものです。また、「正しい生活をするものは長生きする」というように、長寿を全うすることもできます。それゆえに「正直は最良の方策」であり、「正直の頭(こうべ)に神宿る」のです。その逆に、不正を働いたり、人をだましたりすれば、信用を失い、「不正は決して栄えない」となります。しかし、この欺瞞と虚飾に満ちた今日の世界では、正直であることは難しいことです。この点、大人は子どもの純粋さに学ばなければなりません。「子どもと愚者は嘘が言えない」からです。そういえば、「裸の王様」のインチキを見破ったのも子どもでした。
教訓247. 正直は栄える。
教訓248. 子供と愚者は正直である。
自助や自律をすすめる
かつて、日本の女性の美徳は「けなげ」でしたが、今では「自立」に変わったようです。この福祉社会でも、相互扶助に加えて「自助」の大切さが説かれています。「自分の舟は自分で漕げ」というように、人からの援助もあまり当てにしない方がいいのです。長く他人の世話で生きていると、依頼心のみ強くなり、自立心をなくしていきます。「居候の三杯目」とか「自立できないものは臆病」とかいうように、遠慮がちになり、プライドさえ失いがちになります。それに、不平があっても口に出すわけにはいきません。「乞食は選べない」のと同じです。やはり、「十分な面倒を見てもらいたければ、自分で自分の面倒を見よ」です。
教訓249. 自分のことは自分で行え。
教訓250. 自己を律することのできるものは幸せ。
愛と結婚について教える
イソップ物語の「北風と太陽」が見事に示しているように、人の心を動かすのは力ずくの強制ではなく、暖かい愛情です。「愛は世の中を動かす」のです。むろん、愛は男女の間にも生まれます。しかし男女の愛は、激しさのあまり、「恋は錠前屋をあざ笑う」のように、常軌を逸することがあります。そこまでいくと「恋は盲目」としかいいようがなく、「恋路の闇」をさまようことになります。肉親の間の愛情も同じで、理性を欠いた「親の欲目」は高じて「親馬鹿」になり、他人のひんしゅくを買います。愛には、やはり知性が必要です。知性ある健全な愛は、祝福された結婚にまで進みます。「恋は結婚で実を結ぶ花」なのです。
教訓251. この世は愛から。
教訓252. 失恋もよい。
教訓253. 恋は盲目である。
教訓254. 恋の力は強い。
教訓255. 親の愛も子に対しては盲目。
教訓256. 結婚はすばらしい愛の結実。
教訓257. 不幸な結婚は愛の墓場。
教訓258. 家庭は自由を束縛する。
悩みや罪の意識について教える
肉体の疲れは、一晩眠ればたいていは取れるものですが、精神の悩みは、安眠を妨げ、疲れを翌日に持ち越します。「命取りになるのは過労ではなく心労」だと、コトワザはいいます。「好奇心が猫を殺した」ように、「気苦労は猫を殺す」のです。まことに「心配は身の毒」です。心配のうちでとくに健康に悪いのは、罪を意識する心、良心の呵責です。「良心は誰をも臆病にする」ともいいます。何か罪を犯した場合はもちろん、ささいな悩みで苦しんでいるような場合でも、懺悔するなり、人にうち明けるなりして、心の安らぎを得てください。「懺悔は心の安らぎ」であり、「平穏な良心は柔らかな枕」なのです。
教訓259. 悩みは健康に悪い。
教訓260. 良心は自らの罪を責める。
教訓261. 懺悔して良心の安らぎを得よ。
憶病について教える
気の弱い人間が臆病風に吹かれると、何度も死ぬ、死ぬといって弱音をはきます。しかし、勇気あるものは、死を前にしても、決して死ぬなどと口外しません。「憶病者は何度でも死ぬが、勇者は一度しか死なない」のです。むかし「男は黙って○○○○○○○」というテレビコマーシャルがありましたが、高倉健の演じる寡黙の男はまことに勇者の風格を備えていました。おしゃべりが勇気と裏腹であるのは、日英とも同じのようです。「吠える犬はめったに噛まない」といいますが、噛む勇気がないから吠えるのです。とはいえ、臆病者も追いつめられると、「窮鼠猫を噛む」ことがあるから、用心しなければなりません。
教訓262. 憶病者は弱音を吐く。
教訓263. 憶病ゆえの威嚇は怖くない。
教訓264. 憶病者の弱いものいじめと蛮勇。
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