燦火と銀花は居間いまと廊下をへだてるふすまの前にたどりつく。

「ここでお待ち下さい」

「ありがとうございます」

なにげない銀花の礼に、燦火はぴたりと止まる。いらだちに満ちた燦火の胸の中で、温かなものがじわりと生まれたからだ。
燦火の脳裏のうりをよぎったものは、彼女が唯一ゆいいつ心を許していた九鬼家の女中じょちゅう夕奈ゆうなの姿と言葉である。"自分から歩みよれば、相手も自分に歩みよってくれる"という夕奈の優しい遺言ゆいごんが、燦火の中で意味と実感をおびはじめる。ついでに、父親の説教せっきょうも。

「……どうってこと……
ありません」

本心からの笑みをいくばくかまじえながら、燦火はふすまを引いて銀花を居間に通そうとした。
しかし、燦火が引手ひきてに手をかける寸前すんぜん、勝手にふすまが引かれた。そこには翠嵐が立っていて、燦火と銀花をぼんやりと見つめている。
突然見知らぬ妖怪が現れたこと、そしてそのどす黒い雰囲気に、銀花は翠嵐を見たままこおりつき身動きが取れない。自業自得じごうじとくとはいえおのれの足かせとなっている翠嵐を、燦火はいまいましげに見る。
妖怪であれ人間であれ、その者の精神構造は指紋しもん声紋せいもんのように世界で唯一無二ゆいいつむにのものだ。したがって一度精神が壊れてしまえば精神の設計図せっけいずも失われることになり、設計図もないまま壊れた精神を復元ふくげんさせることは困難をきわめる。かりに組み直したからといって、その構造が元の精神構造と同じであるという保証すら得られない。
しかし、その燦火の主張しゅちょうは父親に聞きとげられなかった。最初からあきらめずにとにかく尽力じんりょくせよと言われて家から放り出されたのだ。
翠嵐を治さなければ家に帰れず鬼の剛力ごうりきほこりも失ったままの燦火は、必死に翠嵐の精神を組み立てようとした。そのかいあってか、翠嵐は立って歩けるまでに回復し、かすかな意思らしきものを取り戻したようだった。しかしいつか翠嵐がまともに戻ったとしても、その時の精神構造、そこからしょうじる性格が元のものと同じであるかどうかは分からない。それはまるで、あるかどうかも分からないゴールを探して広大な砂漠さばくをさまようようなものである。
翠嵐は銀花の前に立ち、不思議そうに銀花の顔や肩、胸をぺたぺたとさわる。恐怖にとらわれた銀花は固まったまま動くことができない。
せっかくうまくいっていた客のもてなしが台なしにされて、燦火の中に静かな怒りがくずぶりはじめる。

「"おやめ"」

いまだに翠嵐を支配している燦火、その絶対命令により、翠嵐は一瞬で彫像ちょうぞうのように硬直こうちょくする。そしてうつろな顔のまま銀花の身体から手を離し、両腕をだらりと下げた。

「あっ! 翠嵐!」

居間の向こうから、翠嵐を捜していた紅葉が走り寄る。紅葉の登場に、一度見た妖怪とはいえ銀花は呼吸を忘れる。

「ここにいたのか。
だめじゃないか、勝手に動いて」

紅葉は翠嵐の背後に立ち、その両肩にそって両手を置く。しかし、翠嵐が人形のように固まったままなのに気づき、さらにそばにいた燦火に気づく。

「お前、妹に何をした?
すぐに元に戻せ!」

「……"おやすみ"」

燦火は目を閉じ、いら立ちを声ににじませて翠嵐に命令する。そのとたんに翠嵐は生気せいきを取り戻し、虫籠むしかごからきはなたれたちょうのようにそぞろに歩き出そうとする。紅葉はそんな翠嵐を見取り、とっさに彼女の胸を両腕で抱きかかえて動きを止める。そして目の前に立ったままの燦火をにらんだ。

「さっさと部屋の掃除そうじでもしてこい。
ほこりが積もった所はまだあるんだ」

翠嵐の心を踏みつぶした鬼の燦火と、紅葉はいまだに和解わかいができない。思いかげずに大人しくなってしまった燦火をにくみぬくこともできず、距離の取り方が分からないのだ。結局けっきょく、今のところは口うるさいしゅうとめのように燦火をいびることでしか、彼女とつながることができないでいた。

「……わかりました」

紅葉の指図さしずに燦火はしおらしく従い、紅葉と銀花に背を向けて廊下を歩いてゆく。
燦火という少女は馬鹿ではなく、むしろかしこい部類に入る。反抗はんこうしても、ただ痛烈つうれつな電撃を受けてそんするだけというのはよく理解している。
それでも忍の家にやって来てから、首輪の監視かんしがとどかない妄想もうそうの中で忍や紅葉や翠嵐を何百回惨殺ざんさつしたのか分からない。今この時も、本来の力があれば1/4秒で紅葉をバラバラにできるのにとぼんやり考えている。
燦火がうとまれているのは九鬼家にいた時と同じ。それでも彼女が前ほどの孤独を感じないのは、自分と周りを冷たくへだてる地位ちいの差が取りのぞかれて周りと同じ目線に立っているからだ。今の燦火は周りに求められて仕事をし、の中に組みこまれている。それを思うと、燦火の胸を暗くおおう黒雲に温かな光の道がすようだった。
燦火は複雑な想いを心にともし、めんどうだと思って頭をかきつつ部屋の掃除へと向かっていった。
燦火が廊下の向こうまで歩いていったのを確認し、紅葉はそこでようやくふすまの近くに立っていた銀花に気づく。そして彼女が前に忍と向き合っていた人間であることを思い出した。

「何だお前は?
どうしてここにいる?」

「…………!」

燦火への怒りの余韻よいんか、それとも一種の焼きもちか、紅葉の声は少しとげとげしい。
化け物にはなれっこの銀花も、妖怪と接することなど初めての経験だ。銀花は身体がふるえるような恐怖を覚えていたが、それでも持ち前の剛胆ごうたんで紅葉の目を見つめ返す。

「私は白水君のクラスメイトです。
白水君に会いに来ました。
あなたこそ、妖怪のあなたこそ、
どうしてここに住んでいるのですか」

「…………!」

銀花の問いに、今度は紅葉が狼狽ろうばいする番だった。顔を赤らめながら、「いや、それはその……」と口ごもるだけでまともな答えが言えない。
質問への解答はすでに紅葉の胸の内にある。しかしそれを具体的な言葉にし、さらに他人に伝えてしまうのは、今現在の不安な状況を次の次元に押し進めてしまうような気がして紅葉には恐ろしい。
いかに銀花といえども、正体不明の妖怪にこれ以上強く問いただすことはできない。銀花は紅葉を見たまま動かず、紅葉も彼女から目をそらしたままどうにもできない。
空気の密度みつどが高まったような膠着状態こうちゃくじょうたいが続いていると、紅葉とその腕の中で夢見るような様子の翠嵐、そして銀花に向かって、廊下の向こうから遊霊の霧絵がやってきた。霧絵の後ろには、彼女の道具である黒猫くろねこのノワールがとことことついて歩いている。そしてノワールが銀花を見た。

御主人ごしゅじん。あの少女が以前に
本を持って家にやってきた人間です」

霧絵は目を閉じたまま、銀花の姿を頭から足までしげしげと見つめる。銀花の身体をつつむ冬の冷気れいきのようにりんんだ空気、そして強い意志を宿した孤高ここうの魂を感じ取り、霧絵はおもむろに左目を開ける。

「まさにこれから出て行こうという時に
現れるとは、えんとは不可思議なもの。
ただの偶然か、それとも天の采配さいはいか」

ついに書斎しょさいの本を読みつくしてしまった霧絵は、未読の本が手に取れる新天地しんてんちを目指して忍の家から旅立つところだった。忍の家には気脈きみゃくがかよっていて居心地いごこちが良く、そして読書趣味が良い忍の友人と会ってみたいという願望もあったので書斎で待ってみたものの、銀花はいっこうに現れなかった。本も読めずにただ待つだけという時間の浪費ろうひに霧絵は耐えられなくなったのだ。
銀花が自身に目を向けて表情をこわばらせているのを確認し、霧絵は銀花に霊視能力があることをすぐに理解する。

「その本は土産みやげかね?」

霧絵から話しかけられたことに銀花はおどろいたが、あまりの怪異かいいの連続に常識が麻痺まひしていた銀花は彼女に応じ、素直にこくんとうなずいた。

「感心だな。ついてきたまえ。
君を私の城に案内しよう」

霧絵はそう言って、古巣ふるすの書斎へ向けてきびすを返す。
霧絵の勝手な行動に銀花はぽかんとしていたが、立ちつくしたままの銀花の前にノワールが歩いてきた。その黒猫を見て、それがしゃべり、本をしっぽで持っていった謎の猫であることを銀花は思い出す。

「主人のさそいです。お早く」

ノワールは口も動かさずにしゃべって、一瞬でしっぽをひも状に伸ばし、それを銀花の左手首に巻き付けた。そして銀花を異様な力で引っぱってゆく。小さな猫に引きずられる銀花の「ちょっ……ちょっと!」というあわてた声にも、霧絵とノワールは何一つ反応しない。

「この本は白水君のために持って
きたんです!
それに、ここの部屋で白水君を
待ってなければいけないんです!」

「あの男に本の土産など猫に小判こばんだ。
そもそもあいつは本など読まないよ。
そしてあんな盆暗ぼんくらを待っていた所で
ナンセンスであり時間の無駄だ」

「えっ」

忍が本を読まないという彼女の言葉が本当なら、彼はなぜ本を求めて銀花にメールをしたのか。そしてわざわざまた本を持ってきたのは何のためだったのか。そんな考えが銀花の頭をすばやくかすめた。
しかし、今はそんなことを悠長ゆうちょうに考えている場合でないことも銀花は分かっていた。銀花は両足に力をこめて踏みとどまろうとするも、可愛い見た目からは信じられない猫の怪力にまるでかなわない。

「ちょっと! やめて!
放してよ!」

廊下の先へなすすべもなくずるずると引きずられてゆく銀花。それを見ていた紅葉は銀花の声でわれに返り、ぼんやりしたままの翠嵐を置いて銀花の前に走りよる。そしてノワールのしっぽをつかんで動きを止めた。

「やめろ霧絵!
こいつは忍の客だぞ!」

「知ったことか」

霧絵と紅葉が冷たい視線をぶつけ合い、その一方でさすがの銀花も気力がつきかけ、へなへなとその場にすわりこむ。
その時、玄関の引き戸が引かれ、廊下を人が歩いてくる気配が銀花達に伝わってきた。

「あれ……? 霜月さん?」

銀花のそばに、買い物袋を両手にさげた忍が立つ。突然家に住むことになった燦火のために食料を買いにスーパーへ行っていたのだ。水だけで生きてゆける妖怪とはちがい、鬼の燦火は米や肉や野菜も食べる。燦火は電撃を恐れてか、それとも味に満足しているのか、忍の手料理をつつましく食べている。
忍の声に銀花は救われた思いで顔を上げる。そして忍まで夜のように暗い闇をまとっているのに気づき、銀花は忍を見つめたまま凍りつく。

「順番は先にゆずろう。
ただし、土産は先に受け取っておく」

忍の帰宅きたく、そして銀花の意思を考慮こうりょし、霧絵は考えを改めて書斎へと戻ってゆく。銀花に確認することもなくノワールがしっぽを紙袋の手さげ口に巻きつけ、袋を持って霧絵の後をついてゆく。

「大丈夫? 霜月さん」

忍が差し出した手を銀花は取り、ぼう然とした顔でふらりと立ち上がる。銀花は忍の手をにぎったまま、忍の顔をじっと見つめている。そんな2人の様子を見て、紅葉の心に不快な感情がじわりとわき上がる。
銀花は忍の家に来てからのことを思い出し、考える。忍の家には右を見ても左を見てもこの世ならざる化け物ばかり。忍までもそれらの仲間入りを果たしているようだった。
十数秒の放心ほうしんの後、銀花のひとみに意思の光がよみがえる。銀花はその顔をいつもの無表情にもどし、忍の顔をじっと見る。

「どういうことなの?
今度こそ、ちゃんと全部説明して
もらうからね」

問いただすべきことはいくらでもあった。どうしてこんなに化け物が住んでいるのか、なぜ忍まで妖怪になっているのか、そして忍が本を読まないというのは本当なのか。

「私も忍に説明をしてもらおう。
この女は忍のなんなんだ」

銀花のみならず、紅葉までもが忍の顔を見て、答えを待ちのぞんでいる。
忍は「あはは……」と苦しまぎれのかすれた笑いをもらし、答えにつまって頭をかいた。