私は、妻の在所のお寺さん(曹洞宗)にお墓参りに行くたびに、その寺さんに寄せてもらっていました。そのとき、そのお寺さんで地区の宗派会報=「護持会報」をしばしば拝見させていただいていました。 その中に檀徒の方々が戦前戦後、苦労して生活されてきた体験や思いを投稿されていました。貴重な体験談が多く、ゆっくり読みたい投稿が多かったので、そのうち「護持会報」を毎回いただくようになり、自宅の本棚のすぐ取り出せるところに置いていて、しばしば読み返しておりました。
その中でも、小池庄一さんの投稿「満州開拓団敷島部落」が、艱難辛苦のご苦労された体験で、ずっと気になっていました。
その後、小池さんを訪問させていただいて、お話を伺う機会を持てました。小池さんは私の亡き父と同じ、大正十一年生まれの小柄な男性でした。穏やかで誠実なお人柄がうかがえました。2時間弱ほどお邪魔したのですが、穏やかなお話し振りの中で淡々とお話されました。当時の貴重な写真や資料も拝見させていただきました。 そしてご本人のご了解を得て、「満州開拓団敷島部落」の文章をこのコーナーにアップロードします。
※曹洞宗静岡県第三宗務所第十六教区会報第十号(平成六年度)に投稿された小池庄一さんの文章です。
満州開拓団敷島部落
玖延寺檀徒 小池庄一
父母が渡満を決意して、私達一家八人が第十次満州開拓団の一員として二俣を出発したのは若葉薫る昭和十七年五月中旬でした。浜松にて富士地区の五家族三十名の人達と合流して、朝鮮経由、一ヶ月を費して奉天省興京県湾デンスに到って富士郷開拓団へ入団しました。
本部を中心にして各部落に分散しました。満人の家や耕地を接収して私達六家族が住い先任の六軒の開拓者の指導を受けて農耕と荒地の開拓の生活を始めました。長男の私が二十一才、父は五十を過ぎていました。満人の家は土造り茅葺き、土間に温突オンドルが通っていましたが、真中が通路で左右の一段高い所で一家八人が生活し寝る、最低の生活でした。然し満人の家と耕地を接収して部落に入り込み物資の配給と言えば日本人のみの生活では、奪われ差別される満人の不満は私達の想像を絶し、その爆発が敗戦を境にして開拓団の悲劇として現れた訳です。
それでも荒地開拓も進んで其処を敷島部落と命名して八棟十六軒が移り住むことになり私達もその一員となりました。父は新居造りに精根を傾け、久し振りに我が家を持つ家長の喜びに輝いて、朝早くから文字通り星かげを載き月影を踏んで働きました。新居は土の部分が出来上がって屋根に取りかかりました。茅を集め束にして、茅を綯った縄で横木に縛り付けて葺いてゆくのです。その日も屋根で縄を締めようと満身の力を込めた父に悲劇が起りました。自分で綯った縄が切れたのです。「あっ」と言う声を残して仰向きざまに大地に落ちた父は、首の骨を折ってあっけなく五十二才の生涯を閉じました。昭和十九年九月の事です。私達が屋根を葺き終えて父の居ない新居に移ったのは十月、満州では冬が始まっていました。父を失い凍傷で足首を失って立居の不自由な母と、姉は満州に渡って直ぐ開拓団に嫁ぎましたので、高等科二年の弟を頭に七才の妹まで四人の弟妹を抱えて、二十三才の私は牛を飼い満人を一人使って先輩や満人に教わりながら開拓団員らしく頑張りました。
新居と言っても電気は無く灯油が頼りで、物凄い蝿でした。鍋の蓋を取ると湯気の中にハエが落ちる始末、よそった御飯はハエで真黒、慣れる迄はとてもとても住めるものではありません。牛を飼い豚・鶏を放し飼いにしていました。然し敷島部落に移って経済も個人経営になりましたので励みにもなりました。
渡満して、二十一才の私は徴兵検査を受けました。開拓団員には召集は無い、と言われていたのに私に召集令状が来て市民一三五部隊に入隊したのは昭和二十年七月十日でした。私ばかりでなく開拓団の働き手は殆ど召集されて征きました。漸く開拓した田で最初の米の収穫の秋を迎えようとしていた時でした。部隊は軸重隊でした。
八月十五日、部隊は奉天にてロシヤ軍に武装解除を受ける事になり、学校の校庭に武装を解いて集合し、解散命令を待っていた時、後続部隊が入って来るや否や軽機関銃で看視兵三人程を射殺してしまいました。我々も再び武器を取りに走って交戦に入りましたが、戦車で取り囲まれて撃たれては、入隊一ヶ月の新兵は撃つより逃げ迷うが先で、戦闘はあっけなく終わって、夕方捕虜になりました。奉天駅前は武器の山と捕虜の日本兵で埋まりました。そして脱走、満人の掠奪が始まった街の日本人宅に用心棒をかねて一週間ほど隠れ、別れて独りロシヤ兵の貨車に潜んで撫順を経て清原に到って三十粁離れた我が家に向わんとしたものの満人から投石される始末。謝り逃げ隠れ裸足で川を渡って人目から逃れて身一つで我が家に逃げ帰った。そしてこれから悲惨な内地への逃避行が始まるのです。
開拓団は居住を許されるとの通報で安堵して、一週間程した夕方、部落の門を締めに行った私を掠めて一発の弾丸が山側から飛来しました。この日を初めとして毎夜のように満人三十人くらいの襲撃を受けました。銃と手製の槍で襲われ、抵抗の態度をとれば殺されました。そして全てを掠奪されました。山側から襲われましたが、私達は山の維子の鳴き声で人の気配を察し、部落から逃れて難を免がれました。全てを奪われた後、私達は本部に集まって警察に保護を求め校舎に寝泊りを始めましたが、夜襲に遭い、火を掛けられて脱出の際、足の不自由な母を遂に見失ってしまいました。
食を失って私達は祖国を目指すべく清原駅に向いました。街道を避け山中を窃み行く三十粁の行程と、体力を失った夜間の行動が悲劇を生みました。泣き声を聞かれると言う理由で赤子の口は手で圧えられ、「後で迎えに来るから」と幼児を山に置去りにして、必死の脱出行が続けられ、最後の所持品も奪われ尽くしたのです。駅に着いた時、姉の背には赤ちゃんの姿が見えませんでした。
清原にて八路軍の保護を受けて救われ、先ず撫順迄貨車を与えられました。撫順で校舎での生活が始まりましたが、食が無いのですから餓死者続出して惨憺たるものでした。そして夜はロシヤ兵の発砲する銃声に怯え、婦女子を追いかけ廻わる魔手から身を守らねばなりません。女子は断髪男装しました。
十月に入って私達一家もロシヤ管轄の炭坑で働かされることになって、社宅の六畳に二家族、生のオカラに岩塩だけ、ゴロ寝の冬の生活が始まりました。私は地下、上の弟と妹は地上の仕事でした。靴の無い私はコークスの敷き詰めた道を駈け足で通る時の、足に刺さる痛さは忘れられないものです。支給された作業服は布を糊で貼った物でしたから坑内で水に濡れれば、ひとたまりもなく終業時にはズボンの腰紐だけの時も有りました。六時−十時の作業を終え共同風呂に入る一時だけが天国でした。
その様な生活でしたから、地元民は僅かな金で日本人の子を買い漁り、腹一杯食べることが出来れば、当ての無い帰国の苦しみより満州に留るも亦良いではないかと人々は考えるようにもなりました。病気勝ちの八才の末妹紀代も一家から離れて行きました。加えてチブスが発生一日数人の埋葬に忙しい日もありました。山に埋葬された死体は夜に堀り起こされ、日ならずして衣類は街の露店に並ぶと言う地獄でした。思いに余事なく只食べること弟妹に食べさせる事だけの日々でした。でもその生活にも終わりが有ったのです。六月中旬出発、昭和二十一年七月四日博多に上陸しました。
追伸:keizouより、
文学好きな方には、、、ご存知かもしれませんが、、、満州開拓団の逃避行の悲惨さについて著述された作品としては、宮尾登美子さんの小説、「朱夏」(新潮社)があります。