公認 泥だんご病になった「わけ」

第1号患者【理
事長の場合】
 ANDSの理事長は 認定された「泥だんご病」にかかった第1号患者です。今回は理事長がどんな経過により、感染力の強い泥だんご病にかかったかをお知らせします。
 この病気は第1号患者がウィルス(ひとなる書房発行の泥だんごVTR・朝日新聞・タモリ倶楽部・口こみとインターネット・長尾(影虎?)さんによる某国営放送?など)を日本全国へ、ばらまいたので、今や日本全国が感染しそうな勢いです。
 ANDSでは 泥だんご病を子供に限らず、大人までも感染させて、日本全国の各地方へウィルスを潜伏(無形文化財的に定着)させたいと考えています。


        泥だんご遊びにたどりつくまで

                                   ANDS理事長 加用文男 

私の専門領域は発達心理学で、子どもたちの遊びの心理を研究することがテーマです。保育園に出かけていって、ごっこ遊びやルールのある遊び、あるいは「ここには鬼が住んでいるんやで!−ええ?ほんとう?」みたいな遊びなどを主に研究してきました。しかし数年前から保育所での子どもたちの毎日のすごし方を見ているうちに、ご飯食べたり、着替えしたり、昼寝したりなどの生活的な活動のことがとても気になるようになりました。思い出してみれば、私自身も娘・息子の子育てで、お風呂入れたり、着替えさせたり、食べさせたり、寝かせたりで悪戦苦闘してきたものでした。なかなか寝付かずに泣き続ける娘を、雪の降る日でしたが、毛布にくるんで町内を走ったこともありますし、おむつ替えで顔におしっこをかけられたことも2度や3度ではありません。食事ともなれば機嫌を損ねればテーブルの上の物を手で一気に払いのけられてガチャーンされるし、なじみのない物はすぐに吐き出される。そこらあたり中がべちゃ、べちゃです。お風呂で頭を洗うときなどは「ようし、これからが大仕事!」と気合いを入れてのぞんだりしたものです。子どもたちが集団で生活する保育所ともなれば、こういう身辺介護の活動部分がどんなに大きなウェイトを占めることになるか、ちょっと考えてみれば誰にでも分かることです。一方で保育時間が長時間化し、他方で子どもたちの生活リズムの問題が保育労働の要をなしはじめた現代ではとりわけ重大な意味を持つでしょう。
 数年前にあること(保育者の労働実態を描いた・ビデオ「あかいみ保育園の先生たち」作り)がきっかけで、どうしてこれまで発達心理学が子育てのこういう側面を軽視して・というよりほとんど無視して「発達」の研究を進めることになったのか?と悶々と考えさせられる経験をしました。
 そのことについて考えているうちに、19世紀以来常識のように言われてきた人間の3特性(直立2足歩行、道具製作、言語の使用)という理解に限界があるのではないか?この理解にすべての根源があったのではないか?と思い始めました。間違っているわけではないにしても不十分な考え方ではないか?現代の生物学の進化観に即していないのではないか?それなのに発達心理学は古い考え方に盲目的に従ってきただけなのではないか?そんなことを考えているうちに、人間の子どもが他のほ乳類たちと違って裸で生まれてくること、毛皮をまとわずにいること、このことの意味が重大に思えるようになってきたのです。(『現代と保育』46号)
 この問題について詳しく書くことはできませんが、裸で生まれてくるが故に、人間の子どもは成長過程でさまざまな素材に身体を慣らしていくことが求められます。衣服や食器、寝るときの布団などの生活素材、土や水や草などの自然素材に身体を慣らしていくことも重要な成長課題になります。こういう物をある時は異物視したり別の時は一体化・融合したりを繰り返して毎日を生きているわけです。寝ること一つとってみても、着替えに始まり、布団に横になることはその素材に身を任すことです。布団の中に身を沈めてそれと身体を一体化・融合させることです。我々大人でも、がさがさした布団の感触が気になる間は寝付けるものではありません。だから子どもは身の回りの様々な素材に自分の身体をなじませるためにいろんな努力をしています。毛布やふとんの端をくちゅくちゅといじったり、近くにいる人の身体をいじり回し、鼻や耳や口など穴という穴に指を差し込んでごそごそします。目の前に他の子の足があればそれをなめ回すことだってあるくらいです。食事でも、口に入れる食物はもちろんですが、箸やフォークの使い心地、イス、テーブルなどの座り心地をめぐる様々ないじり回し行為が多様に見られるはずです。ナプキンだっていじり回すでしょう。そういう行為の一つ一つは、相手をする大人には無駄に思えていらいらの元になりがちですが、子どもにとってはおそらく重大な意味を持っているに違いないのです。できるならプラスチックやアルミの食器ではなく陶器の皿やお茶碗を使わせてあげたいと努力する園が増えてきているのも、保育者たちがそのことに「何らかの意味」を感じ取っているが故にちがいありません。水や土や草などの素材に慣れさせる経験となれば、またさらに多大な労苦と歓喜の多重奏が想像できます。
 発達心理学はこれまで人間の子どものこういう特性を無視して精神発達の研究を進めてきたのです。子どもたちが日常生活で接する素材への恐るべき無頓着。空虚な基盤の上に砂上の楼閣のような「発達理論」が構成されてきたように思えます。
 このことに気づかせられてみると、以前には考えてもみなかったような膨大な研究領域が開けて見えてきたような気がしてきました。我々大人の日常生活に目を転じてみても、車の運転になじんできますと車がまるで自分の衣服のように感じられて、山道で木の枝などが車に当たるとまるで自分の身体をなでられたように感じるものです。車を介して外部を知覚しているわけで、いわば「媒介知覚」しているわけです。カンナを使い慣れた大工は使っている最中はカンナを手の延長のように感じ取っているはずです。放したとたんに、まるで脱ぎ捨てた衣服のように、それは外物に転化します。自分の家の壁に他人が手を触れると、まるで自分の身体に接触されたように感じる人だっているかもしれないのです。
 人間の社会性に関しても、たとえば新入社員の電話の応対教育などで外部からの電話には「課長さんは」ではなく「山本は席を外しております」と答えるように指導するのは、会社組織を衣服のように「着る」ように指導しているとも理解できます。
 毛皮をまとわずに裸で生まれて来るという特性の故に、人間は様々のものを脱いだり、着たりできるのです。自分と環境の間の境界を自在に替えていくことができるのです。
 しかしその「自在」さは生まれつきのものではありません。育つ過程で身につけていくものです。どういう素材に、ある時は身を浸すことができ、ある時は違和感・異物感を感じてしまうか、さまざまな素材を対象にその過程を子どもたちの成長過程に即して綿密に研究していく必要があるでしょう。子どもたちの育つ環境の問題がクローズアップされつつある現代ではとりわけ重要な研究課題といえるのかもしれません。
 しかし、一人の研究者である私にできることは非常に限られたことです。一人や二人の研究者にできることはたかがしれているのです。なら、何か一つのことでもいいから、素材に対する融合一体化と異物感に関係する事柄を研究してみよう。そう思い立って、私が最初に着目したのは水遊びでした。乳幼児期には、水に触れたり、水が身体にかかることを苦手にする子どもたちがいます。頭や顔に水がかかるとびぇーと泣き出す子。そういう子が2歳、3歳、4歳とだんだん平気になり、プールでも自由自在に暴れ回って水遊びを楽しめるようになる、そういう経過を研究してみよう。
 そんな程度の思いで水遊びについて観察を始めようとしていたある日、京都の朱い実保育園の男性保育者・長谷川雅博さんが「加用さん、これ見てみい」と私の眼前に差し出したのが<ピカリと光る泥だんご>だったのです。「ええ?、これどうやってつくったん?」・・・
 2年間にわたる私の悪戦苦闘が始まりました。泥だんご作りのおもしろさに惹かれてやっているうちに、「水遊び」でなくて「泥だんご」でもいいかぁ??
 根がノリの軽い人間ですので、あっさりと「泥だんご」に研究対象を変えてしまったというわけです。ノリは軽くてもちょっと凝り性なところがあり、一つ作るのに3時間はかかるものを2年間で200個近くも作りました。ほとんどは失敗作です。試行錯誤の結果です。地質学の先生の協力で、だんご表面を電子顕微鏡で撮影して調べたりもしました。おかげで「誰でも作れる泥だんごの6段階ステップ」を明らかにできて、光る泥だんご作りのビデオ(VHS−34分 ひとなる書房)まで作ってしまったというわけです。
 実は「泥だんご」づくりにのめり込んでいるうちにふとあることに気づいたのです。これは実際にやってみて初めて気づく、といっては大げさですが、作っているだんごに対して強烈な愛着心が湧いているという体験でした。子どもたちを見ていてもそういう傾向があるようで、長い時間かけて土玉をいじり回しているうちにまるで自分の身体の一部のように感じてくるようなのです(実は泥だんご作りにも「頑丈な玉を作って固さを競う競技用の場合」と「光る泥だんごを目指して美術品的なモノを目指す場合」では若干違うのですが、「光る泥だんご」の場合が特に・・・)。だからこそ一度やり始めるとなかなか手放せなくなるし、手放してどこかに安置してしばらくたつと、その玉に対してちょっと違う感情を持ってしまうらしいのです。愛着が対象との一体化・融合感から生まれてくるらしいと同時に、手放すことで対象を客観視し始めるという意味で、この愛着は常に微妙に変動していく面があるようでした(『現代と保育』48号)。子どもにとって、いじっている玉の価値が微妙に変化するようなのです。まさに「着たり」「脱いだり」というプロセスが含まれている活動であるという仮説を持てた経験でした。母子関係論の愛着論でも母子の融合が強調されますが、こちらはそもそもが人間関係論に偏重しすぎた思想から生まれたものであるために「着たり」「脱いだり」といった変容過程はまったく問題になりません。
 このことに気づくにつれて、当初「水遊び」の研究からでも取りかかるかな?との思いが「泥だんご」でもいいかあ?いや、研究としてはこっちの方が面白いかも?という思いに完全に変わってしまったというわけです。
 こうして私の悪戦苦闘が始まったわけですが、この過程で、結果的に、朱い実の特に5歳児(当時)たちを泥だんご遊びに巻き込むことにもなりました。保育のルーチンも無視して園庭で一日中ひたすら泥だんご作りにいそしむ私に向かって「加用先生はズルイ!」と言い放つ子もいたように、保育の邪魔になった面もあったと思いますが、何人かの子どもたちにとっては保育所生活の根っこに位置付く活動にもなれたように思えます。だんご作りが子どもたちの保育所生活にいろどりを添えられる面があると実感できた経験でした。研究と実践が結合できるという私にとっては非常に貴重な経験となりました。

 光るだんごについて分かってみればメカニズムは単純です。電球のような発光体ではありませんので光るといってもそれは反射光です。表面がデコボコしていれば光は乱反射してしまうわけです。表面が限りなく平坦になっていてデコボコがなければ直反射します。この直反射率が高い物が「よく光る」わけです。電子顕微鏡を使って光る泥だんごと光らない泥だんごを比べてみますと・・・

 どちらも表面は粘土になっています。どうして普通の土を使ったのに表面が粘土になったのか?といいますと、おまじないの結果でも鼻の脂の作用でもありません。普通の土の中には「地面をたたいたときに舞い上がる土埃のような成分」が含まれていますが、これが粘土成分なのです。この粘土成分を利用して表面被膜を作り、それを限りなく「つるんとした平坦な被膜」にすること、これが光る泥だんご作りの秘訣なのです。

 作り方の第一ステップ@どろどろにした普通の土を握りしめて水を絞り出し球体にします。A乾いた普通の土をふりかけてそっとなぞるを繰り返して球体を作る。Bふりかけた土が付着しないくらい乾いてきたら、ぎゅっと握りしめて固くしてから、表面をつよくこすります。被膜の元ができるのでC地面に手を当ててなで回したときに手のひらに付着してくる粉のような土をなすりつけてはこすり・・・これを2時間くらい繰り返しますDビニール袋に密封して3,4時間休ませた後、取り出すと表面が濡れているので、ちょっと乾かしてCの作業を続けます。また密封して、E取り出したとき濡れなくなったら布で磨きます。ジャージの生地のような布がいいですね。磨いて、ハイ、できあがり。あなたは間違いなく子どもたちの人気者になれます。